【障子の上の欄間・・・これはしゃいなしか】
「しゃいなし」の松村哲夫さんの投稿【1日付】を懐かしい気持ちで拝読しました。群馬で生まれ育った私は今でも時々使いますが、他県生まれの夫は何のことか分からないと言います。
私は「余計なこと」「くだらないこと」の意味で使うことが多いです。最近では、6畳の日本間の縁側に面している障子の上の部分が欄間のようになっていて、障子の張り替えが素人には難しく、「頼んだわけでもないのに勝手にこんなしゃいなしをして、大工さんは何を考えているのだろう」と腹立たしい思いで使いました。また、無理に若作りをしたり、TPOをわきまえずラフな格好をしたりしている有名人をテレビで見ると、「あんなしゃいなししなければいいのに」と思ってしまいます。
標準語で言うより状況をぴったり言い表している気がします。そして松村さんが書かれているようにユーモラスで、この言葉を聞くとクスッと笑ってしまいそう。単刀直入に言うより柔らかい感じで趣があります。ただ、私たちの子供の世代はもう使わないだろうと思うと、ちょっと寂しさも感じます。【投稿者は高崎市の福島博美様】
昨日の読売新聞群馬版の読者投稿欄「ひろば」に、このブログのコメンテーター「時計屋の隣りさん」の昔懐かしい「夜見世」についての文章が掲載されました。誠におめでとうございます。私も彼の文章を拝読し、子供の頃の楽しい「夜見世」の原風景を思い出しました。
つきましては、広く県内外の皆様に紹介させていただきます。
タイトル・・・ 幻想的な「夜見世」・・・・
子供の頃、街なかの夜店はまるで別世界だった。夕方になると、テント次々と並び、白熱球の光で活気づく。水槽では、元気に泳ぐ金魚たちと水面に映えるヨーヨーが目を引く。針金に薄紙を貼ったすくい網は、金魚にあっという間に破られ、お情けでもらえた一匹の金魚が嬉しかった。ヨーヨー釣りでは、紙縒(こよ)りの先に付いた鉤(かぎ)針(はり)で釣るたびに、小さな達成感で心を躍らせた。
甘いものが貴重だった時代、買う菓子はベッコウ飴と決まっていた。そばにはゲーム台があり、ボタンを押すと飛行機が回り、“当たり”に止まればもうひとつもらえるがほとんどハズレ。それでもワクワクしながら挑戦した。魔法をかけるように鼻をくすぐるアセチレンガスの香りも記憶の深い場所に刻まれている。
遠い夏の楽しい情景を静かに思い出させてくれる夜店の当て字である「夜見世」は夜店のもつ幻想的な空気を静かに漂わせている。
今日の群馬県・上毛新聞の読者投稿欄「みんなのひろば」に、このブログのコメンテーター時計屋の隣りさんの文章が掲載されました。誠におめでとうございます。つきましては、県外の皆様にもお読み戴きたく、ここにご紹介いたします。
タイトル・・・愛すべき「しゃいなし」・・・
「しゃいなし」という言葉をご存じでしょうか。群馬の方言で「たわいない」「余計なこと」「くだらないこと」を意味します。その響きはどこかユーモラスで、温かみと親しみを感じます。
子供の頃、ごみ袋を振り回し、結び目がほどけて中身をぶちまけたことがありました。母親から「ばかなしゃいなしはやめな!」と厳しくたしなめられ、泣きながら片づけた苦い思い出があります。「しゃいなし」は時に叱咤を含めた愛情を込めて使われる、そんな不思議な言葉です。
また、使い方によって微妙にニュアンスが異なります。「しゃいなしに投稿したら新聞に載った」は、「気まぐれ」や「何げない」という意味が伝わります。この多様な使い方がこの方言の魅力の一つです。
『広辞苑』には「しゃいなし」の意味に近い「差異(しゃい)もない」や「仕様(しょう)もない」が載っています。石川啄木が詠んだ「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」からは、母の軽さに涙した瞬間の切なさとともに、「たはむれに」に「しゃいなし」を感じます。
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