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2007年5月13日 (日)

花が好きだった母

親孝行したい時分に親は無し。今日は母の日です。6人兄弟の末っ子であった私は母が42才のとき生まれました。食糧難の時代にあって、今思うに6人の子育てはどんなにか大変であったろうと思われます。

 母は小学生の私に夕方よくおにぎりを作ってくれました。海苔は高 くておやつなどには使えません。遊び疲れた私が頼みますと、母は「味噌にする。塩にする」と、おむすびの回りにつけるものを訊きましたので、私は味噌を頼んだほうが多かったと思います。色がついてるほうが少しは良かったのでしょう。

  時々、友だちの持ってる玩具などがほしくなり「買っておくれ」というと、お勝手で薪の火をくべながら、「家はね、税務署が税金を取りに来るので、余分なお金は無いのだよ。それをしないと、さしょうさいになり大変なんだよ」と言いながら、私に言い聞かせるのです。この言葉の響きに何だか恐さを感じた記憶があります。今、思うに「差押え」のことです。

結局、母の説諭に従いいつも我慢するしかありませんでした。経済的に大変だったようで、食べ物についてや何かの支払いについて父と深刻に話してたような記憶があります。子供心に、にこにこした母の顔に戻ればいいのにと思ったりしました。

 進学でもずいぶん心配をかけたように思います。地元の大学合格発表の朝、発表を見に行く前に念のため新聞を見たら私の名前が掲載されていました。それを確認すると、母は「お前本当に良かったね」と肩を叩いてくれました。心から安堵したのでしょう。今でもその感触が忘れられません。

 大学卒業と同時にインド日本人学校教員採用試験を受験する時も、「治安が悪く、そんな暑い国に滞在して病気にでもなったら、一人でどうするの」 と泣きながら反対しました。今思うと母として本当に苦しかったのでしょう。心配かけてしまいました。

 こんなチャンスは二度と巡ってこないことを約2週間言い続けつけてお願いしましたら、「母もしっかり待ってるから行っといで」と受験を認めてくれ、合格しインドへ旅立つ日には、羽田飛行場へは見送りに来てくれませんでした。私の姿が見えなくなるのが耐えられなかったのです。

 その代わり、長い任務を終え帰国した時は羽田まで迎えに来てくれ、私の持つ荷物にずっとつかまってました。

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