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2008年5月16日 (金)

翼が結んだ日中友好、その6

内モンゴルへ飛んだ鳩に会いに行く

     ★中国で起きた大地震にお見舞い申し上げます。★

               タイトル【軟らかいラクダのこぶ・大草原】

 大草原は見渡す限り短い草で覆われた大地で、道がなくてもどこへでも歩いて行ける。大きなラクダもいて、大草原に沈む夕日はまさに「月の砂漠」の歌のようで、世の中には広い所もあるものだとつくづく感じます。

 ラクダに乗ってはじめて知ったのですが、あの背中のこぶは非常に軟らかいのです。ですから乗って揺れるとき、こぶにつかまっても駄目です。人が乗るときラクダは乗りやすいようにしゃがみますが、立つとき前後にすごく揺れて落ちそうになり、思わずこぶにつかまりたくなります。

 また、この大草原には羊が何千頭といますが、そのうちの何頭かが今晩の食事のために殺されるのです。生きている羊を仰向けにし、二人がかりで腹から切っていく非常に残酷な光景です。かわいそうであんなことをしていいのかと恐ろしくなり、食卓に出る羊の肉を見るたびに思い出してしまいます。

  ここ大草原に生きる人々は快く迎えてくれます。羊の乳でできた手作りの紅茶を出して歓待してくれましたが、私は香りや味に慣れてないせいか何杯もいただけるものではありません。片言の中国語で話してみましたら、年令は見た目よりお若いことが分かり、私とあまり変わらなかったです。そして大自然のように心の広い人たちで、その大らかさは羨ましいです。

 また、ここに住んでる方々は大草原での生活に必要なのか、遠くに響く発声法が身についてるように感じます。私は声の出し方に関しては、いつも注意してる方ですが、このように広いところで発声練習するのも、あるいは良い響きの声を作る一つの方法かもしれないと思いました。それにしても歌声は天性なのでしょう。充実した声量です。

 海抜が高く空気が澄んでいるためでしょう。夜は星座が降るように見えます。特に天の川は白い雲のようにくねっています。空気の澄んでいた大昔から人間は天体の動きとともに生活していたことが頷けます。真夏にしては温度が低く、鳥肌が立ちました。

 翌日は集寧(チーニン)に戻り体育協会で私の歓迎会がありました。大きな赤い字で私の名前が掲げられてある部屋に通されました。内モンゴル放送局や新聞で取り上げられたためか、皆さん私の鳩が日本から内モンゴルまで飛んできたことをご存知でした。

 歓迎会では副知事、集寧副市長、レース鳩協会会長、作家の李氏らともお会でき、新聞記者など多くの方々と交流できました。場所を変えての懇親会では、またもやあの強いお酒で何度も乾杯です。どういう訳か、このとき私は結構飲めましたので、これらの偉い方々も喜んでくださり、和やかに話ができました。

 作家の李氏は「中日友好号」を主人公とした物語を出版すると言ってくれました。お酒が程よく回ると、李氏は「北国の春」を歌ってくれましたので、私はお礼に「アジアの伝書鳩」と「中国国歌」を歌いました。

 その後、張さんご夫妻と傳さんと私はデパートに行ったり、集寧市が一望できる小高い丘にある忠霊塔に行きました。ここでは少々複雑な気持ちになったのです。

 漢字ですので意味は大体理解できますが、傳さんが訳してくれました。「第二次大戦でこの地方の人々が日本軍によって犠牲となり、これを後世に伝える」という主旨が銅版に彫られています。集寧市も日本に対して大きな歴史的事実があることを知り、静かに合掌し忠霊塔を後にしました。

 今回、私の鳩が日中友好の架け橋になっているので、今後、恒久的に日中の平和を望み、私をここへ連れて来てくれたのかもしれません。

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