一年の無事を感謝し屋敷まつりを行う
私の家では、ご覧のような稲荷様が屋敷の東の位置に南向きに祀ってあります。私が誕生するまで父は商売が軌道に乗り経済的に安定してたようで、この稲荷様も近くの石屋さんに掘ってもらったとのことです。本日12月15日は我が家の屋敷まつりです。
昭和元年前後の昔ですから手彫りです。裏面には父の名と建設年月日が彫ってあっても85年も経過し判読は難しい状態になってます。それでも紋付で石造りのため現在でも屋敷の守護神として、両親から私に世代交代しても見守ってくれてます。
父と私は年齢差が50才もあるので、一緒に手をつないだり、どこかに連れてってもらった記憶は殆どありません。唯一脳裏に刻まれてることは5才頃の夏、近くの烏川に連れてってもらい父が亀のようになり私が背中に乗って水面を泳いだ記憶がおぼろげにあります。あとは父といえば金物屋兼雑貨屋として、お店でお茶を量り売りしていた姿などが思い出されます。
東京オリンピックの年に、それまで永く住んでた土地を高崎信用金庫に売り、現在の地に移りました。おもしろいことにその高崎信用金庫が最近、私の家の近くに引っ越してきて便利になってます。
父が亡くなって早、四半世紀が経過。昔のことを思い出すと子供としてあまり親孝行しなかったことが悔やまれます。私が入学試験に合格したとき本当に喜んでくれ「努力が実を結んだからだ」と言ってくれました。
今となっては不可能ですが、温泉旅行など連れてってあげたかったです。「親孝行したい時に親は無し」とは私にとって恥ずかしいほど身につまされる諺で、親とは本当にいつまでもいないものと悟りました。
一方、6人兄弟の末っ子であった私をいろいろ心配してくれたのは母です。入学試練に合格した時は「良かったね」と肩を叩いてくれた感触が今でも忘れられません。はじめての就職でインドに行く時、飛行機が見えなくなるのが嫌だからと見送りに来ませんでした。私が遠い外国に就職するのが辛かったのです。しかし、任務を終え帰国した時は迎えに来てくれ、私が持ってる荷物から手を放しませんでした。赴任してる間ずっと心配し、帰国したので「やれやれ」だったのでしょう。
こんな両親が生涯かかって手に入れた現在の土地を私が引き継いでることを改めて認識し、改めて感謝するのが、本日の屋敷まつりと思っています。
稲荷様では、両親に現在一人暮らしであっても健康で暮らしていること、娘たちも健康で仕事に従事してること、屋敷の植え木は春に花いっぱいになることなど感謝するつもりです。
この他、我が家の年の瀬の仕来たりとして、臼と杵で餅をつくことです。しかし、一人で餅はつけません。捏ねる人が必要です。果たして昔のようにぺったんぺったんと地響きさせて餅をつける日が来るでしょうか。
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