« 起床してすぐ聴くネイティヴ英語 | トップページ | 高度ある舎外を求め、訓練と餌の調整 »

2014年9月26日 (金)

350年前の古堤が現存する倉賀野町

P1050703 【渡り鳥のサンクチャリーになってる古堤】

 私が小学生の頃、担任教師に連れられ写生に来たことがある堤は、当時の広さ推定80m×80mほどで、子供心に広い池であったことが脳裏に浮かびます。しかし、昭和30年代になり倉賀野保育園開園にあたり、その用地として堤の南半分が埋め立てられ、現在は北半分が残るのみです。

 この地の先人のご労苦を偲び、いつまでも大切に保存するのが現代に生きる人間の役目で、先日、私は見学し、近隣住民の方にいろいろ訊ねてみました。

 倉賀野町下町にある諏訪神社の東に人知れず佇むこの堤は、徳川第4代将軍・家綱の寛文時代(1661~1672)から近年まで、実に350年間、この地一帯の農地を潤す灌漑用溜池として役目を担い続け、当時より長野堰~五貫掘経由でここまで水を引きました。

P1050708  古の江戸時代前期に造られたこの古堤は、現在では農地が激減し、その役目は殆ど終わっても、由緒ある古堤が倉賀野に現存してることは、平成に生きる私たちが目で確認できる歴史的事実の一つでしょう。

 江戸時代前期の名残であっても、町民のとりわけ若い人にはあまり知られてない可能性があり、啓蒙の必要があります。

 初秋となった現在はカムチャッカ・シベリアなど北方からの渡り鳥が長閑に羽を休めてます。

P1050706  碑文によると、寛文時代は全国的に大干ばつであったと伝えられ、この年代は後に起こる浅間山の大噴火である1783年前後の「天明の大飢饉」の丁度100年前に当たる頃です。

 ご多分にもれず、「寛文の大干ばつ」は倉賀野の庶民にとって食糧難で困窮した時代と想像します。

 ところで、「寛文時代の大干ばつ」から100年後の「天明の大噴火」では倉賀野一帯でも農地に火山灰が降り積もり、長期にわたり穀物が収穫できず、火山灰を取り除く作業が毎日続き、農民にとって大変な労苦で火山灰はあちこちの箇所に集められ、次第に農地を回復したと言い伝えられてます。

 実は、私の庭を掘り返すと今でも当時に集められたと想われる浅間砂がたくさん出てきます。このため、火山灰を集めた地(灰塚)に私の家は建ってる可能性があります。庭は水はけが抜群で、シャクナゲなど植物の成長では恩恵になってます。

P1050698  一方、前述のように、古堤は諏訪神社の近くにあり、この古堤と関係があるかどうかは定かでありません。しかし、古の昔より、この地一帯の庶民の信仰の神社であることに間違いなく、どうした由来か、8月26日の例大祭には境内で相撲を取る珍しい風習が今でも残ってます。ここには推定1000年の大欅がありましたが、近年の台風で朽ちました。

 数年前の例大祭では、相撲大会のゲストとして群馬県出身の湊親方が来訪しました。今場所、稀に見る大きな期待を一身に浴びてる新入幕「逸ノ城」の親方です。

P1050707【水面を調整する排水口・・・昭和時代に造られたと想われる】

 古堤は江戸時代前期の大干ばつに対する倉賀野の農民の悲願と労苦により完成した灌漑用溜池です。倉賀野の町民はこれをよく理解し、子孫にこの古堤の存在と意味を教え、倉賀野の歴史的産物を未来永劫、保存し続けたいものです。 

|

« 起床してすぐ聴くネイティヴ英語 | トップページ | 高度ある舎外を求め、訓練と餌の調整 »

倉賀野の七不思議」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 起床してすぐ聴くネイティヴ英語 | トップページ | 高度ある舎外を求め、訓練と餌の調整 »