« リーマンショック以来、1ドル=115円の円安 | トップページ | 好調なアメリカ経済・・・株高と1ドル=120円台か »

2014年11月11日 (火)

我が師の生家が世界文化遺産に・・田島弥平旧宅

P1050908 【世界文化遺産の田島弥平旧宅】Click please!

 この度、群馬県に誕生した世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一つである伊勢崎市境島村の「田島弥平旧宅」を訪れました。彼は幕末から明治時代にかけて近代養蚕飼育法の確立に貢献した人物です。

 しかし、驚いたことにこの建物を見るや否や、私は30年ほど前、この特徴ある大きな家を訪れた記憶が蘇りました。

 というのは、この家は私の音楽の師である田島秀雄先生の生家であり、ここで先生の父上様の葬儀に参列したことがあるからです。先生の闊達な人柄は広々したこの環境と、偉大な人物を先祖に持つ所以ではないかと感じます。先生のお陰で私の職業は生涯を通じて音楽教育が貫けました。

P1050905 【この地・島村は利根川のスーパー堤防で守られてる】

 江戸時代まで、ここ島村は利根川の中洲であったとのことで堤防ができた現在は利根川の南側に位置し、埼玉県側であっても行政区は群馬県です。200年に16回も繰り返された利根川の氾濫は流れを変え、当時の村人は利根川の脅威に大変な苦労されてたことが分かります。その一つが弥平宅にある古井戸です。

P1050909 【当時、最先端であった汲み上げ式井戸ポンプが現存】

 ご覧のように汲み上げる位置が庭から2mほど高くなってます。これは利根川の氾濫に苦慮して工夫され、洪水が井戸の中に入らないためです。

 この井戸をよく観察すると手動式ポンプがなかなか良く考案されてます。取っ手を上下に動かすだけで母屋の2階まで水を押し上げることができる画期的なものです。この価値ある井戸について触れてるパンフレットや解説は見受けられません。きっと、2階の養蚕室へ水を送った生き証人でしよう。

P1050920

 ところで、田島弥平は文政5年に生を受け明治31年に世を去ってます。彼の功績は養蚕の最先端を行き、非常に独創的でありました。それまで自然飼育法であったものを養蚕の建物は「空気の循環」が重要であることに気付き、「清涼育」の実践と普及に努め、その証が大屋根の上に出てる櫓です。

 ここから温まった空気を煙突式に逃がし、温度と湿度の調整を図りました。この蚕飼育法に全国から伝習生が研修に訪れたとのことです。

P1050922 【櫓内部・・・パンフレットより転記】

 弥平は大きな母屋建設に当たり、蚕のために家の向きから深く考えました。現代でもそうですが、一般的に家は南向きに建てます。

P1050912【母屋の軒先に掲げてある遠山近水村舎の書】

 この母屋は遠く谷川岳、赤城山、榛名山を望み、近くに利根の流れに佇む村舎と記しています。

 弥平は人間の住み心地より、蚕の生育に適した環境作りは、先ず、家の方向を南東向きに作ることで、それにより、夏季はすぐ裏を流れる利根川の水上を渡って来る涼しい風を家の中に取り入れ、温まった空気を外部へ逃がすことを重要視し、長い櫓を設けたことが認識できます。

P1050911 【最上階にある空気を逃がす櫓・建物全体が煙突になってる】

 1階が住まい、2階は柱を設置せず大広間の蚕室で「清温育」を確立し、年間を通じて生育できる養蚕技術を実践、普及しました。

P1050918 【蚕種】

 彼は蚕種を自らイタリアに輸出販売するため、暑いインド洋経由でなく、アメリカ~イギリス経由でイタリアへ出向き、蚕種を五万枚以上運んだと伝えられます。明治12年~13年の飛行機のない時代、この勇壮な海外行きに驚くほかはありません。

 日本の黎明期に先駆け、弥平の蚕飼育に対する創造性と海外を股にかけた行動力に、私は学ぶことが多かったです。

 我が恩師・田島秀雄先生は田島弥平さんの6代目に当たるとのことです。先生の生家が世界文化遺産であることに驚くとともに、その誇りを胸に一日とても感銘し帰路につきました。

|

« リーマンショック以来、1ドル=115円の円安 | トップページ | 好調なアメリカ経済・・・株高と1ドル=120円台か »

群馬県の世界遺産」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« リーマンショック以来、1ドル=115円の円安 | トップページ | 好調なアメリカ経済・・・株高と1ドル=120円台か »