コハクチョー飛来地として「宮の森」を生かしたい
私が週に2回ほどウォーキングしてる鏑川の土手の傍にひっそり佇む森があります。鬱蒼とした20本ほどの樹木はすべて檜であり、3本の桜と共にある「宮の森」です。土地の形は三角形です。
不自然なこの土地の形は、戦争直後に土手が建設されるとき、土地の一部を提供し、現在の変則的な姿になったと想われます。
実はこの「宮」は私の遠い先祖が作ったと言い伝えられており、今でも私の親戚である木部町のM家がここを管理してます。私の母は木部のM家から大正時代に私の家に嫁に来たことから、この「宮」では子供の頃よく遊んだものだと生前に話してました。
50年ほど前、人生でただ一度、私は今は亡き母をこの「宮」に連れてったことがあります。凄く懐かしそうにいろいろ話したたことが思い出されますが、当時、若さ故、関心のなかった私は、今思うと、もっとこの「宮」について詳しく訊いておけばよかったと後悔してます。
ただ一つ、私が覚えてることは、幼かった母はこの近くまで母親に連れられて来て箒星を見たと言うことです。長い尾を引いて正に「箒の様であった」とその驚きを私に伝えてます。なるほど天体の歴史を紐解れば、それは1910年に現れたハレー彗星と時代が一致します。私の母が9才のときです。
現在、この「宮」を管理してるM家では娘さんが元気に暮らしており、先日伺ったとき家の中に昔からのものが相当数、残されてることから、おそらく、この「宮」について建設当初の経緯に関する資料が残ってる可能性があります。娘さんがお父さんから聞いてることは「長命稲荷」であるということです。
石の祠が昔のまま残り、鳥居も100年以上の時代経過を物語るものでしたが、最近になって管理してる娘さんが、半永久的なステンレス製の赤い鳥居に替えました。将来のために自分の時代に修復したかった気持ちの表れでしょう。
この位置は周囲がすべて田んぼで広々した場所です。管理してる娘さんの話では公園として高崎市に買いとってもらいたい旨、当局に相談したら、公園としては面積が不足するとのことで、これからもM家で管理するとのことです。
私も遠い先祖の子孫であることから、何か保存、維持に加わりたい気持ちがあります。人生が終わるまでには石の祠を入れる1坪ほどの木製の神社のような建物を作り、森の周囲には半永久的な垣根を作り、ベンチを置いて公園風の宮の森として未来の人々に休息を与える場所になればとの思いがあります。
実はこの近くを流れる鏑川にはシベリア、カムチャッカからと想われるコハクチョウが12月から3月頃まで飛来し、羽を休めてます。この習性はおそらく遠い昔に始まり、ここ「宮の森」はコハクチョウ見学者の休憩地として理想的な位置にあります。
3000K~4000K離れた地から飛来し、ここをサンクチャリーとして羽を休めることから、コハクチョウーは「日ロ間の平和の使い」であり、この生態は未来永劫、続くでしょう。
近くにある「宮の森」は今後、「日ロ友好の森」として、コハクチョー見学者の休憩所となり、その役割を担えば、存在意義はより大きくなると考えます。
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