上野三碑は渡来人に由来するか
【高崎市の吉井インター付近の案内標識】・・・画像を拡大してください。
ユネスコの世界記憶遺産となった「上野三碑」を見学するため、世界から来日する人々への案内標識が上信越道の吉井インターを下車すると掲げられてます。ここから「上野三碑」へは近いからです。それらは「多胡碑」「山の上の碑」「金井沢の碑」で、すべて高崎市西部に現存してます。
英語に興味がある私は表記されてるThe Three Stelae of Kozukeに目が行きましたが、碑については通常Monumentが使われます。しかし、ここでは見慣れないStelaeと訳されてます。これは世界的石碑などで使われる元々ラテン語のStelaであり この場合、三基なので複数としてStelaeと訳されてます。これは他の世界的遺産の表記に倣ってます。
ところで、私は「上野三碑」すべての比較的近くに住んでることから、若き日より数回、三つの碑をそれぞれ訪れてます。しかし、その頃はこれらの碑の価値を認識せずにいました。
平安時代以前の碑が現存するのは全国で18基のみといわれ、そのうちの三基が高崎市にあるとはこの地は縄文時代~弥生時代~飛鳥時代にすでに人が住み、それは大陸からやって来た渡来人と元々この地にいた日本人たちと推測できます。この碑文の中にある羊という文字は学術的に渡来人を表すと考えられてます。多胡碑には多胡郡の成り立ちが刻まれてます。
一方、金井沢の碑には母のことが書かれたり、群馬の字が見られ、群馬という文字がある最古の事例で、群馬のルーツを知る手がかりになるかもしれません。
こちらは山名町の丘陵にあります。子供の頃から度々ピクニック気分でここを訪れたものですが、文字の判読は素人には難解で、いずれも訳を読んだものです。隣接する古墳の墓碑と思われます。
ところで、私がこれらの碑を通じて、現在の私たちの生活と結びついてる最も関心の高いことは「誰が大昔の中国から私たちが毎日使用してる漢字を日本に齎したか」という事実です。
碑はすべて漢文調で刻印されてることを考えると、この地域に多く住んでたのは渡来人と考えられ、この人たちが数百年にも亘り、中国から朝鮮半島経由で日本に渡り、この地に住み着いて生活し、漢字を広く普及させ、稲作を始め、仏教を伝え、寺院建築などに寄与したのではないかと想われます。
一方、渡来人が日本へ渡って来た理由について、この時代は中国では春秋時代から戦国時代であり、度重なる国の混乱と、その戦火を避けて、安全な日本へ逃れて渡って来た、いわば亡命民族ではないかと考えられます。そしてこれらの人々が元々いた日本人との混血を繰り返し、弥生人になったのではないでしょうか。ですから、私たちには渡来人の血が流れてる可能性が大きいです。以上は私の推測です。
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