人生の後半戦は対話を中心に
【台風19号の鏑川】・中村堰を昨日撮影・拡大してください。
昨日午後4時30分より、暫くぶりに高崎市木部町を流れる鏑川の土手を1時間ほどウォーキングしました。しかし、どちらかというとウォーキングというより散策に近い速さです。今まではあまりなかったことで同じ土手を歩く人に抜かれることもあります。「人生で大切なことの一つは何事も人と比べることではない」との思いから、どうぞお先にという感じになり、その分、歩くと脳への血流が程良くなり、却って思索に耽られるものです。
これは歩くこと本来の意味であり、私の脳裏にある「本心から自ら望むことをすれば人と比べなくなる」との思いからでもあります。
現役時代は否が応でも他人と比べられ、結果が問われ、それにより成績が問われ、自らも勝たねばと悩んだりもしました。今考えてみれば芸術として音楽教育すること自体に意味があった筈です。この点では最近、生き方が変化してます。確固たる自らの目標があれば、日々「それに到達するための努力をしているか否か」が、自分自身で下す評価になってます。
ほぼ毎日、家の前の道を10往復歩いたり、時には季節の移り変わりを感じたくて、気分転換を含め、鏑川の土手を歩いたりするのはスポーツの競歩でないのでスピードを計ったりすることではなく、歩数を気にするではなく、程良い血液循環により「体内が快適であるかどうか」です。多少、汗ばむ程度の運動量を目安にしてます。ある程度の距離が必要なのは一つのことを継続できる集中力を養う謂わば精神修養でもあります。
【空気は澄み、別天地のような鏑川の土手】
一方、人生途上では思いもよらぬことがあります。妻を亡くし、結果的に平成時代の半分は一人暮らしを余儀なくされ、二人の娘たちは独立し、私はいわば孤独な日々と孤食の連続になりました。
しかし、どうにか「孤立しないようにしてます。」つまり、社会との接点は大切にしてます。日々近所との繋がりに始まり、学童の登下校の安全を図りバトロールを10年以上続けてます。可能な限り、元同僚である友人と接触したり、彼らと群馬県内外の山を散策したり楽しかったです。その親しい友や、今夏は姉兄とも次々他界し、残念でたまりませんが、これが現実の人生であり、自らがめざす道を進むことに変わりないと心に誓ってます。
孤独とは、思索に耽る場を提供することからよくても、前述の通り、社会から孤立してはなりません。社会生活ではいろんな人と話ができることこそ人間たる所以です。人間の才能である言語生活は自らの生き方を高める最大の手段です。いろいろの付き合い方はあっても、しかし、付き合い過ぎて、人に期待したり、人を頼り過ぎると生きづらくなります。
私は、人との交流の真髄は対話にあると感じてます。これは単なる挨拶や、会話することを超越し、言葉を媒介にして心や考えのキャッチボールではないでしょうか。
特に、今後の生き方について対話することができれば、今までの自らの考えをより良い方向へ矯正することに繋がり、一方、もしかして自分の上手く行った例を人に参考にしてもらうこともでき、互いにプラスになるでしょう。これも人間に与えられた才能の一つで、高齢になっても、いつまでも行なう対話こそ、人間として生まれた幸福な時間と言えるでしょう。
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