いつまでもピアノに接する日々でありたい
https://www.youtube.com/watch?v=dgrO9cbPOws
物資の乏しい戦後に教育を受け、ピアノとは疎遠の少年時代を過ごしました。小学生の頃から鳩を飼育したり、中学ではバスケットボールに興じた日々でした。しかし、高校では情熱的な音楽の先生に出会い、その先生に勧められ、今ままでとは縁のないピアノの初歩であるバイエルを弾き始めたことが、生涯を通じて、音楽ある生活になるとは夢にも思わなかったことです。それはピアノを始めるには遅いと考えらる17才でした。早朝に学校へ行き、音楽室で1時間半ほど練習しました。
先生のお陰で、その後、結果的に教職の道に進めましたが、長い教員生活の期間、先生のように徹底して生徒の人生の方向を変えるような指導を行なったことは一度も有りませんでした。教師の「核心である情熱」という点で我が師には勝てませんでした。やはり教師で大切なことは、生徒の将来の生き方ため情熱を持って接し、心を込めて厳しく指導することなのでしょう。
私は教員時代に主に吹奏楽に力を入れ、コンクールで金賞をめざすという、つまり、他の学校に負けないで、指導者としても勝つ喜びのみを目標とし、勝負師でもないのに毎年、勝った負けたのことばかりで、今振り返ると「音楽教育が有るべき本来の姿」とは別方向に向いてしまいました。生涯を通じて芸術を愛好する人に育てるという「真の音楽教育とは何か」を考える余裕はなく、合宿などを通じて勝つために頑張ることのみの日々を過ごしました。
一つの目標に向かって進むことは良くても、コンクールは教師も生徒もどうしても利己主義に陥り、教育にとって肝心な「利他の精神」など、どこにもなかったと痛感しています。芸術と、勝敗を決するスポーツとは異なるのに、それと差のない目標を持ち続け、本来の音楽教育の目標から逸脱した教員であったように思います。
その中にあって、ただ二つ良かったのは、定期演奏会として群馬音楽センターでたくさんのお客を前に、吹奏楽のオリジナル作品より古今の名曲の数々を披露し、引退する三年生一人ひとりの良さを振り返り、「顧問の私が感じたこと」を観客に紹介したことは教員として有るべき姿で良かったと感じます。また、授業を通じて、世界の国歌を扱ったり、一般の生徒すべてにクラシックギターを取り入れたことは私のオリジナルで良かったと振り返ります。
【高崎商業の11年間、定期演奏会を開いた群馬音楽センター】
ところで、現役を退いて今思うことは、これから本当の「音楽の喜び」を追求する日々でありたいことです。幸いピアノがあるので有り余る時間の一部はピアノに向けてます。例えば、ソナチネはピアノ演奏として技術的に易しいと考えられてますが、逆に、これを作曲するとなると簡単にできるものではありません。ここに古今の大作曲家の偉大さがあります。音符は簡単でも「音楽的内容が豊富である」ということです。如何にこの豊富さを享受できるかこそ芸術の真髄ではないでしょうか。
以前に書きましたが、「本心から自分が望むことをすれば、人と比べなくなる」所以がここにあります。人と比べると生きづらくなります。如何に本当の音楽の喜びを心で捉えるかです。その点から見るとソナチネや、技術上その上のソナタとなれば、これはもう第一級の音楽美が備わってます。ですから以前にホームコンサートで弾いた「テンペスト第1楽章などは実に素晴らしいピアノ曲である」と今更ながら心底より感動を覚えます。これからも精神を錆つかせないためテンペストに挑みます。
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