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2021年1月14日 (木)

60年前、今宵の倉賀野は祭りで活気に満ちてた

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 昭和30年代までの倉賀野では、今日1月14日の晩は各地区【上町、仲町、下町、南町、田屋町(大門ともいう)、田小屋町、正六】から山車が出て、町内は山車の行列で、町民がたくさん繰り出し、誠に賑やかでした。太鼓の音、笛の音、鉦の音が入り乱れ、その雰囲気は殺気に満ちてました。

 というのは、倉賀野町は今では高崎市に属し、敢て言うならば文化的行事が殆どなくなりましたが、昭和33年頃までの当時は町長や多数の町会議員が存在し、その他、各地区にそれぞれ指導的な人や有力者がいて、我が町内こそ最も勢力があるかの如く振舞い、それを他の地区に見せつけるように町内別にそれぞれが強い仲間意識と対抗意識ありました。

 1月14日の晩とは、翌朝に烏川の河川敷で、各町内ごとに正月飾りの門松などを集めて焼却する「道祖神」で、通称「どんど焼き」の風習があり、その前夜祭です。「どんど焼き」では町民は総出で各自が餅や枯れ枝に刺した繭玉を持ち寄って、燃えてる道祖神の火でそれを炙り、食べたものです。近くでは山車が道祖神のための独特のリズムを叩いています。

 ですから、1月14日の晩と15日の朝は町中がお祭り騒ぎとなり、今では考えられない程、それは賑やかな倉賀野町の一大イベントでした。前夜祭の最後では、つまり午後8時から10時頃までは、各町内の山車が倉賀野の中心地である駅前の四ッ角【通称・重田屋付近・現中町信号】付近に集まり、互いに四方八方から向い合い、大きな音で、太鼓や鉦、笛で奏でます。この殺気だった雰囲気はもう町内対抗戦を呈しています。

 各地区の太鼓の叩き方や笛の節は微妙に異なり、他の町内の勢いに負けまいと力いっぱいの叩き合いです。このことを「しゃぎりっこ」と言いました。このとき山車についてる提灯名がおもしろく、仲町は「な組」、下町は「志組」、南町は「美組」、田屋町は「田組」と、それぞれに組と書かれ、これからも町内ごとの団結と、他に対する対抗意識が強く感じられます。

 この祭りは、おそらく江戸時代から続いていた考えられます。以前にブログで記述した通り、江戸時代には、倉賀野が烏川を使った江戸からの河岸で、大変な賑わいだった頃から続いていたと考えられます。

 ところで、この祭りの他、当時の倉賀野では、12月24日に松市が開かれ、倉賀野町民のみならず倉賀野を取り巻く当時の周辺農村各地からも、多くの人々が正月用の松飾りを買いに来て賑わったものです。その場所は現在の仲町の旧・小金沢医院から倉賀野駅にかけての道の両側に店がたくさん出て、老若男女は年中行事として楽しみました。この日はこれと共に町中の商店が年末大売出しでした。私の家も「原道屋」という屋号の金物商店だったことから、買物客が多く、近くの叔父も店の手伝いに来てくれました。

 ところで、これらの祭りが衰退したのは、先ず、町村合併で高崎市になり、町長や町会議員いなくなったこと、そして、何より車社会に突入し、国道の一般道を遮断して、そのような祭りは不可能になったこと、また、いわゆる各町内にまとめ役がいなくなったためと考えられ、今後、このような祭りが再び、行なわれることはないでしょう。今では考えられないことですが、各町内はそれぞれ凄い団結力がありました。

 同様に、7月14日の晩に行なわれていた通称「ワッショイ」と言った万灯で倉賀野を町内ごとに練り歩く行列もなくなりました。子供たちは各自が万灯を作り、その四方に好きな絵を描いて行進したものです。現在、倉賀野で続いてる祭りは倉賀野神社の春秋の祭り、と下町の諏訪神社で行なわれてる「相撲の祭り」のみです。
 

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倉賀野の歴史」カテゴリの記事

コメント

面白く、そして、凄み、迫力があった祭りは
懐かしくもあり、憧れのようなものもあった。昔の町内を練り歩く賑やかな祭りはスポーツイベントであった。

投稿: 夢祭一葉 | 2021年1月14日 (木) 14時47分

夢祭一葉さんへ・・・いつか某所で貴殿に申し上げたことがあります。学校の朝の学級活動やホームルームの時間に、担任が出席確認と学校からの連絡事項を伝えるのみでなく、担任の口から平素考えてることを5分位の時間に話すことはとても意義があるということです。
 拙いブログは最近はこれを意識するようになってます。というのは小生も担任当時、何を話そうか考えたことがよくあったからです。なかなか適切な話題が見つかりませんでした。そんなとき、ちょっとした珍しい話題があると生徒さんもよく聞くと思いました。
 今回の内容も倉賀野の歴史の一コマなので倉賀野中や倉賀野小では役に立つと思われます。彼らが成人してから、本文のような行事を復活させたい気持ちになる子供もいるかもしれません。理由は親や先生方が生まれる以前の昔の倉賀野のことで、それを教える人はもういなくなりつつあります。

投稿: カッキー | 2021年1月14日 (木) 16時42分

 まいど岸和田のいわねえと申します。
お祭りのHPしています。
倉賀野で検索するとヒットしました。
前から山車があったとは聞いていましたが、
このような熱の入った文は初見です。
記事の引用よろしくお願いいたします。

投稿: いわねえ | 2022年1月21日 (金) 06時05分

いわねえさんへ・・・おはようございます。遠方より「倉賀野」でアクセスされ有難うございます。
 本文の内容については、倉賀野でも、現在70才以上の人のみが覚えているだけで、それ以下の年齢の人は直接知らないでしょう。
 今でも、山車は各地区に残っていますが、何かの行事がある時に、例えば子供の日などに、ついでに出る程度です。
 時代の推移とともに、交通が発達したこともあり、国道(中山道)を止めての祭りはできません。第一、指導者やまとめ役がみな他界し、江戸時代から続いたと想われる素晴らしかった倉賀野の文化はなくなりました。
 記事の引用については、公表してるものですから自由にお使いください。

投稿: カッキー | 2022年1月21日 (金) 09時01分

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