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2021年1月25日 (月)

天明三年・浅間山大噴火による大飢饉を救った池

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【倉賀野駅北に広がる鯉池】・・・今朝、撮影。拡大してご覧ください。

 私が子供の頃の故郷・倉賀野には、これと言って見るべきものはありませんでしたが、この広い鯉池では鯉がたくさん養殖されており、日曜日などに遊びに来た思い出があります。当時は小池と思ってましたが、鯉池だったのです。

 現在では、埋立てにより当時より狭くなり、鯉の養殖はされず、農業用水として、この界隈の田への供給が主たる目的で一年中、満水を維持し、冬季にはシベリアからと推定される鴨など水鳥のサンチャリーとなり、長閑な光景が通る人を和ませています。この鯉池は電車からも見えます。

 明治29年生まれの父から、私はこの鯉池の成り立ちについて教わったことはなく、ただ農業用灌漑のためとは思っていました。ですから、その目的は当たってます。しかし、最近になってこの池についての説明書きが池の渕に立った看板で示され、それは思いも寄らぬ江戸時代の実情によるものでした。

 それは江戸時代中期の倉賀野の農民の窮状が伝わる内容で、私はこの事実を目の当りにし、この鯉池は238年前の農民の苦難の歴史を今に伝えてることが分かり、建設機械のない時代、倉賀野の先人が農業再生のため、この大きな池を人海戦術で建設した想いが蘇り、胸に迫りました。以下は立て看板が伝える内容です。

 タイトル・・・新堤【通称鯉池】・・・

 倉賀野町には「古堤」と「新堤」と呼ばれる二つの灌漑用溜池があります。新堤がこの溜池で、天明三年(1783年)に着工し、足かけ4年の歳月をかけ、天明六年に完成したものです。

 新堤の工事が行われた天明年間は、史上まれにみる多難な時代で、天明3年7月には浅間山が大噴火し、倉賀野近辺でも、火山灰が2~3センチも降り積もり、田畑は壊滅的な被害を受けています。その後も天候不順で大凶作となり、いわゆる天明の大飢饉が発生しました。

 このような困難を乗り越えて造られた新堤は、その後、倉賀野町の東部・東南部の田畑を潤してきました。現在、建設当時より若干狭くなりましたが、今なお、用水地として機能し、また、四季を通じて独特の水辺の風景を演出しています。

 ・・・立て看板による説明書きは以上の通りです。・・・

 浅間山から50Kも離れた倉賀野町には、今でも天明三年の浅間山大噴火の形跡を示すものがこれ以外にも残ってます。それは田畑に降り積もった火山灰を集めた「灰塚」なるものです。

 実は57年前に亡父が農家から購入した私の土地の周囲は元々田んぼでしたが、私の土地だけ地盤が高かったです。このため今でも地面を掘ると浅間砂が出て来ます。つまり、灰塚だったのです。火山灰【別名・浅間砂】は米作りに都合悪くても、庭木の成長に欠かせない水はけの良さがあり、とても都合が良いです。このため、毎年、春になると紅梅や花桃など、よく咲きます。今後も、いろいろ散策し、故郷・倉賀野の歴史的事実を捜したい。 

  

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