10年ぶりに倉賀野町の冠稲荷神社に詣でる
先日、私の家から烏川の畔に位置する広大な緑地公園までウォーキングしたところ、対岸の阿久津側の岸がきれいに整地され始め、今までの原始林のような荒地から見違えるようにきれいな光景が目に入ります。やはり人間の手が入ると良くなります。
帰路に暫くぶりに横町にある冠稲荷に立ち寄りました。もしかして、倉賀野の住民でもこの冠稲荷の存在や場所を知らない方が多いのではないでしょか。
370年前からこの地・横町に建立されていたと記されています。先日は社殿の前で一礼し、鐘を鳴らし、健康について感謝し、今後について誓いを新たにしました。
ここへの行き方は、今では塞がれてる五貫掘りの通学路を、仲町と下町の間にある太鼓橋から50mほど南に行くと、右手に階段があり、そこを登ればすぐの所です。または、旧17号の仲町の信号を100mほど東に行き、横町に入り50mほど行き、今度は東に曲がると鳥居が見えます。どちらも近くに駐車場はないので歩いて行くことになります。
【五貫掘りからの階段を登れば、冠稲荷神社へ】
私は五貫掘りの上を塞いで完成した小学生の通学路を度々ウォーキングしてるので、太鼓橋のすぐ南の途中にこの階段があることは以前から知ってました。しかし、まさか、この階段が冠稲荷への石段だとは気づきませんでした。先日は参拝後に上から下りて来たら、いつも通っている五貫掘りの道に出たので驚きました。
この冠稲荷についての説明は次の通りです。
この稲荷は三光寺稲荷神社とも呼ばれ、延宝二年(1647)に勧請が行なわれ、同七年にこの地に造営されました。当時は、倉賀野宿の旅籠屋やそこに働く飯盛り女たちの信仰を集めていました。
しかし、明治四二年(1909)の神社合併政策により、ご神体は倉賀野神社へ合祀されることになると、同四〇年に、社殿は川曲村(現前橋市川曲町)へ売却され、諏訪神社として移築されました。
同村は江戸時代は倉賀野宿の助郷の村で、幕末は倉賀野宿寄場組合に属し、縁の深い関係にありました。
ところが、その後、町の人の夢にお稲荷さんが現れて「元の場所に戻りたい」と泣くと言うことから、この横町に昭和十一年に再建され、冠稲荷となりました。
現在も毎年4月8日に祭礼が行なわれています。
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