高野貫行先生 想い出いっぱい 今日が命日
今朝、倉賀野町上四地区で行われた「ラジオ体操会」の帰りに、隣の高野貫行夫人にお会いし、挨拶したところ、彼女曰く「今日が主人の命日です。」とのことで驚きました。亡くなって早くも丸一年です。
1964年東京オリンピックの年に、偶然にも高野貫行先生ご夫妻が木部町から私の西隣に引っ越して来られました。以来57年間に亘り、共に高校教員という共通点もあったことから公私ともに誠にお世話になりました。
その貫行先生が昨年の今日亡くなられ、誠に悲しく今でも心より残念に思っています。
というのは私は国立高崎病院や黒沢病院に幾度となく彼を見舞いましたが、いつも、却って反対にこちらが慰められたり、激励を受けました。私の今後のことについて、彼の考えは他の人と一段異なる意見をお持ちで、それを賜り、それを胸に私は現在、生活してる現実があります。
しかし、その後、急激にコロナ禍が流行し始め、感染防止のため、ついに病院が外部の人を立ち入り禁止にしました。ですから、奥様や娘さんまで見舞いに行けない状態が数ヶ月間続き、入院されてる貫行先生にとって、これがどれ程か辛い日々であったであろうか想像できません。ご家族に会いたいのに会えないで最期を迎えられ、何と無念なことであったでしょうか、その心境は計りしれません。
ところで、住まいが隣同士である上に、私は学生時代、前橋に通学したため、当時、彼が勤務されてた県立前橋高校への電車通勤では、度々、行き帰りに電車がいっしょになり、当時からいろいろ話す機会に恵まれ、有益だったです。時代は30年程ずれていても、その前橋高校に私も最後は勤務したのですから不思議な縁です。
しかし、彼は元々寺の息子さんとして生を受けたことから必然的に住職を兼ねながら高校教員の道を歩まれ、特に永い期間、県教育委員会に奉職され、高校教育課長や指導部長の重責を果たされました。
県を退職されてからは群馬の森にある歴史博物館長を数年続けられ、その間、倉賀野から職場まで片道4Kほどを健康のためでしょう。毎日、徒歩でリュックを担いで通勤された姿が今でも目に焼き付いてます。
思い出はいろいろあり、例えば、私が高商に勤務してたとき、英語指導教員であるニュージーランドからAETのスペンス先生が暫くの期間、私の家に滞在したことがあります。このときも、当時、県教育委員会におられた貫行先生は私の家に来て下さり、乾杯してから彼は英語で流暢に話し始めたのには私は誠に驚きました。
彼がすべての社会的役職から離れてからは、私と同じに植木が趣味であったことから、垣根越しに話をしたり、時にはお茶に呼んで戴き、奥さま共々歓談の機会を設けてくださいました。そして一度だけ私は彼を誘い、私の車で吉井町の日帰り温泉「牛伏ドリームセンター」に行ったことがあります。車内の英語版ナビには感心して下さいました。お風呂に浸かりながら牛伏山を眺めつつ、彼は「ここにペースメーカーが入ってます。」と私にそこを見せてくださいました。やはり、心配事はあったのかもしれません。
一方、前述の通り、彼は住職でもあったことから、実は私が生涯会えなかった祖父母は彼の心洞寺に眠っており、私の代わりに永いこと祖父母もお世話になったのです。
今日は私の庭に生った枇杷をご霊前に供えました。合掌
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