自己改革 思い込みから 先ず脱皮
一般的に、私たちは年令を重ねるに従い、それに反比例して拡大しやすいものに柔軟性の欠如があります。つまり、今までの人生経験なるものを基盤として培った考え方に固執したり、新たな分野や方法に挑戦することを嫌ったり、日々、進化し続ける社会に順応せず、頭の硬さに気づかされることがあります。そして、甚だしい場合は世間から置いてきぼりになる場合が起こり得ます。
先日、昭和時代の最後に11年間勤務した高崎商業高校へ出向き、今年度赴任された音楽担当で吹奏楽部の顧問の先生に初めてお目にかかりました。私は一見して、先生は若いながらにしてすでに他校での貴重な経験をお持ちで、新たな感覚で音楽の授業と吹奏楽への取り組みが感じられました。若き女性のY先生は学生時代から、何とチューバを専門とされ、私は先ずその経歴に驚きました。そして、話しているうちに何と私と同窓であることも分かり、親しみが増しました。
実は私はこの高崎商業吹奏楽部に長く携わったこともあり、これからも心底から、この部を支援する気持ちに溢れてます。しかし、経験があるからと言って、私の考えを押しつけたり、昔のやり方の伝承をお願いすることは絶対にしないつもりです。先生の若い情熱と現代を生きる新たな感覚での方向性に、あくまで私は後方支援するつもりです。
ところで今年度、先生が赴任されてから、すでに大きな功績が感じられます。それは先日行なわれた群馬県西部地区の吹奏楽ソロコンテストに高商から3組の生徒さんが出場し、3組とも金賞を獲得したことです。これは生徒さんの美的感覚と日頃の努力の賜であることはもちろん、Y先生の指導の下での結果であり、今後この成果を十分に生かし、これからの演奏予定に拍車がかかることを願ってます。
前述の如く、年令を重ねると、私たちはややもすると昔のことを引き合いに出したがりがちですが、過去は思い出の中にあるのみで十分であり、過去は過ぎ去ったことであり、現実には、現在と今後があるのみです。ぜひ、若き先生の目標と教育方針で思い切り指導して欲しいと伝えました。
その上で、私が一つ付け加えたことは、日々の音楽教育の場面では、あくまで教師です。ところが、ホールでの演奏会においては、ステージ上で教師は指揮をすることから、この時は「教師から脱皮し、音楽家、つまり指揮者になって欲しい」とお伝えしました。生徒が楽器を練習するのと同じく、指導者は指揮の技術に卓越していなければなりません。
とかく、指揮棒を持って振れば音楽は進行し、演奏できてる感覚に陥りがちです。しかし、音楽で最も大切にすべきは、明るい音楽でも、寂しい音楽であっても、深い美的感動が生じることです。
指揮法の効果的な動作如何によって演奏は更に柔軟に変化し、今まで練習した通りに演奏できればOKというものではなく、音楽が生き物として、ステージ上で、生徒さんに今までにない感情のこもった演奏体験をさせることが肝心要でしょう。こんなことから合奏では、教師の指揮の技術はとても核心になります。
一般論として、吹奏楽では指揮法より指導法であると言われてます。しかし、音楽することにプロもアマチュアもなく、指揮者の動作とそれを見る演奏者に時間的一体感が生じてこそ、鑑賞者はその演奏に心を奪われるものでしょう。
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音楽教師として、吹奏楽部顧問としての経験を後輩の教師に赤心もって語っています。真淵と宣長の一期一会の「松坂の一夜」を思い出しました。自分の語った真実がいつの日か役に立ち、分かってもらえば先輩としては本望ですね。
滾々と湧き出る音楽に対する情熱を感じました。
投稿: ここに泉あり | 2021年7月 8日 (木) 18時50分
ここに泉ありさんへ・・・こんばんは。本当に暫くぶりに高商へ行ってきました。驚いたことに、私が高商に赴任した年に1年生として入学した当時の生徒が、現在、高商の校長してます。つまり、授業で教えたことがあります。たまたま出張とのことで会えませんでしたが、再度、訪問するときには会えそうです。お休みなさい。
投稿: カッキー | 2021年7月 8日 (木) 22時58分