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2021年9月13日 (月)

ウォーキング 一石二鳥で 歴史知る

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【拡大してお読みください。】

 私の故郷・倉賀野は南に一級河川・烏川が流れてます。この源流は倉渕町の鼻曲山付近です。私は以前に角落山登山をしたとき烏川の源流近くまで探検しましたが、その源は奥山深く、烏川という名の所以である「烏の口」の形をした岩まで辿り着くことは、とてもできませんでした。

 ところで、倉賀野の中心部は今でも旧中山道(旧国道17号)を挟むように人家が並び、その町並みは古民家も散在し、江戸時代を彷彿させる宿場町の面影を残し、天気の良い日には歴史探訪する人たちがリュック姿で散策してます。

 近年、元倉賀野中校長・矢代氏が「倉賀野かるた」を作成されたことから、町民の中にも改めて倉賀野の史跡に関心を持つ人が増えてます。

 近年、私も近くにお使いに行くにも車を使う傾向ですが、心と体に鞭を打ち、健康のため意識して歩くことに努めると、副産物として平素気づかずにいるいろいろのことが目に飛び込んでくるものです。特に、最近、倉賀野の歴史を説明する立て看板があちこちに目立ち、思わず立ち止まって読み、改めて故郷を勉強です。

 今回、倉賀野町「上町西」交差点近くに、写真の立て看板が「中山道の一里塚」と題して立っているので、私はウォーキング中、改めて立ち止まって読みました。ここは中山道から根小屋方面へ行く一本松橋への曲がり角であり、昔はきっと、のんびりした一里塚として比較的大きな塚があったのでしょう。現在では、地面が平らにされ、その面影は全くありません。ここから西の正六地区寄りには杉並木があり、道幅が広くて旅人が休憩した雰囲気が今でも感じられます。

 一方、倉賀野は宿場町であったことから、遠くは九州や中国地方から参勤交代で江戸城への往き帰りに当地で宿泊し、遠方からの大名行列が中山道を通過する理由は、東海道では大井川越えが非常に難所であったためと伝えられてます。

 この一里塚は日本橋から26番目であることも頷けます。というのは1里とは約4㎞であり、26番目ということは倉賀野から江戸日本橋まで104㎞になり、現在でも正確な距離と言えます。なお、私が子供のころは杉並木がありました。今でもその雰囲気は多少残っています。

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倉賀野の歴史」カテゴリの記事

コメント

「中山道」を「なかせんどう」と呼んだり、読ませることにかねがね不思議に思っています。
「山」を「せん」と読む事例は少ないです。
「中仙道」と言う表記もあります。江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年(享保元年)に、新井白石の意見を入れた江戸幕府の通達により中山道に統一されたそうだ。


投稿: 木曽恋い鴉 | 2021年9月13日 (月) 15時12分

木曽恋い鴉さんへ・・・1日に2回もコメントを賜り、恐縮しております。
 コメント同様に、倉賀野には京都に近い順に、上町、中町、下町と地区の名前がついてます。
 私が生まれたのは中町ですが、子供の頃よく見た字は「仲町」でした。こちらのほうが仲が良さそうで、温かみもあり、馴染みもあります。いつの間にか、役所の方でしょうか、誰かが間違って今では信号にも中町と表示され、味気ないです。
 貴殿の申される通り、以前は道路案内に「中仙道」という字をよく見ました。何でも簡略化すると文化の香りがなくなります。
 

投稿: カッキー | 2021年9月13日 (月) 15時35分

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