内モンゴルのパオに共通する登呂遺跡の住居
先日、群馬県高崎市からAudi TT Quattro黄色を走らせ、 暫くぶりに日本平からロープウェイで久能山へ、そして登呂遺跡を訪れました。この日は良く晴れ、雪を被った富士山の雄姿を眺め、日本に生まれた幸せを感じました。
私は歴史の中でも、特に石器時代の人々や縄文人、そして弥生人など古代人の生活様式に興味があります。大昔の一般庶民は「どんな暮らしをしていたか」、「何を食べていたか」、「どんなことに興味を持っていたか」、「何に悩んだか」、「どんなことに喜怒哀楽を感じていたか」と思いを巡らします。登呂に住んでいた弥生人の生活や精神面で現代の私たちに共通することは何であるかを知りたいです。
例えば、弥生人の中には私のように鳩を飼い馴らす趣味の人はいたのだろうか。楽器を奏でることが好きな人はいたのだろうか。柴犬はすでに猟に使われたり、人に懐いていたのだろうか。
初めて登呂遺跡を訪問したのは学生時代で、浜松の楽器工場見学した帰りに立ち寄りました。今回はそのとき以来で懐かしかったです。
写真の竪穴式住居の外部や内部を見た途端、私の心は以前に訪れたことのある内モンゴルのパオに類似していると直感しました。
それは登呂遺跡の住居が高床式でなく、地面に直接建ててる点や、特に内部が円形であることが現代の内モンゴルのパオに似ているのではないかと思います。
建物でもう一つ似てることは、どちらも入り口が一つである点です。
【下の写真はパオで生活するご夫妻とともに記念撮影】 食事のためや暖をとるために内部で火を燃やして出る煙は、パオでは天井に空気抜きの丸い穴【写真下】が開きます。登呂遺跡の竪穴式住居ではそれはなくても煙は屋根の隅から必然的に排出していたと推測できます。
内モンゴルのパオが季節とともに広大な原野を移動するのは、寒さから逃れるためと、動物と人間の食料確保のためであり、一方、登呂では北方を南アルプス連山や富士山が寒さ除けの屏風となって一年中、温暖な気候が確保でき、海に近くて海産物が採れ移動の必要はなかったのでしょう。
内モンゴルのパオを訪れたときは60度のお酒とおいしい民族料理を食べた後、上の写真の帽子を被った方から私が日本から来たことが紹介され、日本の曲を弾くように頼まれ、「津軽海峡冬景色」を弾きました。登呂遺跡の弥生人も、きっと、土笛などで音楽を奏でていたであろうと推測します。
パオは集落を作るようにいくつも並んでいました。いつの日かパートナができたら一緒に内モンゴルを訪れ、現地のレース鳩愛好者と、もちろん、60度のお酒で乾杯し旧交を温めたい。
最近のコメント