【榛東村にある八幡神社・・・元は倉賀野の大杉神社】
群馬県の倉賀野町に住む私は、若いとき歴史に疎く、ましてや故郷の昔についての知識欲はなく、今になって思えば、もっと父母を始め、近所のお年寄りや故郷の歴史家に明治時代やそれ以前の倉賀野について、話をいろいろ訊いておけばよかったと、年を重ねた現在、深く後悔してます。
その一つが、今日のテーマである烏川の岸にあり、室町時代~江戸時代~明治初期にあった大杉神社の存在です。

【現在の説明板・・・大杉神社跡に建てられてる】
倉賀野を流れる烏川は往時、倉賀野河岸として有名であり、江戸から3~4日かかって川舟で着いた荷物の塩や海産物を陸揚げし、牛車を使って、信州や越後へ荷を運び、一方、帰り舟では内陸で収穫した穀物などを江戸に運び、最盛時には大小一万の川船を有し、利根川上流では最大の河岸であったと伝えられます。倉賀野には今でも牛街道という道が現存します。
その川岸の北の高台に舟や船頭の守護神として「大杉神社」があったことが知られています。しかし、現在、大杉神社は跡形もなく、その面影を残すものは殆どありませんが、ただ、貴重な物が一つ残っています。おそらく現在、多くの倉賀野町民にも知られてないことでしょう。それは当時の「大杉神社の石段」です。石段にはそれを作った石屋の名が刻してあり、誠に歴史の事実を示すものです。信州の石屋と解読されてます。

【階段は現在ここに住む青木さんが利用されてる・・・左に石工名が刻まれてる】
明治初期まで長年にわたり栄えた倉賀野河岸は、文明開化の象徴である鉄道の発達により、河岸は衰退し、しばらくして消滅しました。空き家になった大杉神社はその役目が終わり、明治42年に売りに出されたといわれます。
実は私の父は明治29年に倉賀野で生まれ、その後、少年時代にしばらく大杉神社があったことになり、当然、13才であった父は家から近い大杉神社へ行ったことがあると十分に想像できます。このため、生前、父に大杉神社について詳しく聞いておきたかったと今になって後悔する私です。
20年ほど前から私は倉賀野に大杉神社が存在してたことを知り、その後、幾度となく大杉神社跡を散策し、実は今朝も、大杉神社跡に行き、現在、その土地に住まわれてる年配の青木夫人に偶然会え、いくつか話が聞けました。
それによると、ここに住んでいた先代のお爺さんの話では「大杉神社の社殿は榛東村へ売られ、そのままの姿で榛東村に現存する。」という話を覚えてると話されました。

【榛東村に八幡神社の名で現存する大杉神社】
実は3~4日前の地元紙・上毛新聞「ひろば」に榛東村の湯浅様の投稿が掲載され、その題名は「榛東に残る倉賀野河岸の記憶」でした。これを読んで、今朝の話と一致し、誠に驚いた私です。
新聞を読んで、昨日、早速愛車を飛ばし、倉賀野から22Kある榛東村の八幡神社を訪れました。初めて旧・大杉神社を目にし、倉賀野生まれ、倉賀野育ちの私は感慨無量になりました。暫く、境内に佇み、周辺を眺めたり、心で思いました。「八幡神社が江戸時代、大杉神社として倉賀野にあり、船頭の守護神であったずっと後に生まれは私ですが、今日、初めてお目にかかり、こちらで榛東村民のために活躍されてる姿を目にし、安堵しました」と心で伝え、大きな鈴を鳴らしました。
一方、倉賀野の大杉神社跡には現在、それを示す碑が建立されてます。

【左に烏川が見えます。】
それにしても、一般的に考えると、神社は古くてもそこに現存してるのが普通であり、何故、大杉神社はないのか、長年にわたり不思議でなりませんでした。榛東村では以前の社殿が火災に遭い、丁度売りに出た大杉神社がそちら行くこととなり、神社として第二の人生を送ってることを、この目で見て確認できた次第です。

【立派な彫刻が施されてた大杉神社・・・現・榛東村の八幡神社】
榛東村の現・八幡神社を倉賀野から購入したのは110年前になり、元の名前が大杉神社であったことからでしょう。その周囲には推定100本ほどの大杉が八幡神社を囲んでおり、当時の人々が元々大杉神社であった名を大切にし、たくさんの杉を植林して神社に安心させた心遣いが伝わってきます。現在も杉の巨木に覆われた宮の森になってます。

【杉の大木に囲まれ境内に駐車した愛車】
倉賀野町で生まれ育った私はこれからも倉賀野の歴史の真実を知るため、足腰の鍛錬を兼ね、あちこち散策しながら、証拠となる碑の解読や歴史の事実を示す手掛かりをこの目で確認したい心意気です。
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