カテゴリー「旅行・地域」の15件の記事

2007年11月 9日 (金)

Discover Japanこそ楽しい旅

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 今までで最も時間のかかった長距離列車の旅はインドのカルカッタからデカン高原のカジュラホ遺跡へ行くとき乗った広軌の鉄道かもしれません。2本の線路の間隔があまりにも広くて驚きました。現在の日本の新幹線より広かったように記憶してます。

 次に長かったのは15年程前、家族4人で行った東京~西鹿児島間の寝台特急だったように思います。現在の1人暮らしから考えると夢のようです。3番目は、やはりカルカッタからベンガル湾の近くを走り、海水浴場で有名なオリッサ州プリへの旅行でしょう。15時間ほどかかりました。ここへは二度行き、海水浴とヒンズー寺院遺跡の見物でした。

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 近未来の国内旅行は車を使った旅と列車を使う旅が多くなると思います。どちらも目的地があっても途中の名所旧跡や温泉をできるだけ訪れ、日本の良さを再発見する旅にしたいです。一昔前にDiscover Japanという広告を駅で見ましたが、最近はあまり見ません。

 それでも「この言葉は旅の本質を突いてる」と思います。日本人でありながら日本の本物を目で見るチャンスはなかなかないものです。テレビや案内書を通して分かっていても、あくまで仮想体験。その土地の自然や歴史、人間の生活をこの目でみること。耳から入る自然の音や方言、あるいはいろいろ触って知り得る体験。また、地酒を始めとして楽しい名産の舌鼓。

 中でも日本の一番の良さは温泉にあるかもしれません。ひなびた奥山の露天風呂にゆっくり浸かり、四季折々の日本らしさを満喫したいものです。

Dscf0117  度々、話題にしてます旅の手段となる車のゲットですが、アメリカのサブプライムローンの影響が今だ大きいのでしょう。なかなか経済の安定が生じません。暗闇のトンネルを潜り抜けるのは来年でしょうか。日本経済全体がこの影響を大きく受けてるということは私たちはすでにグローバルの中にいることなのでしょう。

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2007年10月19日 (金)

倉賀野神社のお祭りと近郊散策

Dscf1255  本日は倉賀野神社秋の大祭です。早速、参拝に行きましたが、早朝のため一般の人々はいません。昼頃から午後にかけて賑わいを見せるでしょう。さすがに露天商はたくさん来て仕事を始めてました。神殿に向かって今後のことをお願いしましたが、神は叶えてくれるのでしょうか。

Dscf1258  宮司は先代ともども知る方で家を新築する際に地鎮祭で拝んでいただきました。先代は隣接する倉賀野中学校校歌を作詞されました。本日は学校内にある校歌の歌碑を暫し拝見させて頂き、作詞者である先代宮司とともに作曲者である今は亡き私の姉の名を見て、すでに半世紀歌い継がれてきた歴史に感慨を覚えました。

 校歌であっても、芸術の創造は作者がこの世を去った後まで色あせない精神を持ち続け、後世の生徒さんたちへ崇高な理念を訴え続けています。数年前の姉の葬儀では倉賀野中学校校歌を鎮魂曲とし、私は弔問客を前にソプラノサックスを演奏しました。

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 神社の裏から西へ散策しますと大鶴巻古墳が聳えてます。早春に一度写真を載せましたが、あの頃は樹木の葉がついていませんでした。おもしろいことに、この古墳のすぐ北に対を成すかのように小鶴巻古墳が存在します。この二つに限らず、比較的近くには浅間山(せんげんやま)古墳など下佐野町にかけて古墳群が散在してます。

Dscf1210  6~7世紀頃と伝えられるこれらの古墳建設には大量の土が必要だった筈です。倉賀野と下佐野の境に位置する付近を見渡しますと不自然に低い土地が広がってます。ここの土を運んで建設したのではないでしようか。

 この他、倉賀野にはたくさんの古墳群が存在していたと伝えられ、現に今でも下町の諏訪神社西にその痕跡が見受けられます。

 中でも奇妙に感ずることは以前にブログに書きましたが、倉賀野の仲町から下町への一帯が不自然に低いです。夭逝した天才画家「かまち」の生家あたりを中心に直径200メートルほどが数メートル低いのです。なぜ低いのかは誰も話題に出しませんが、ここ一帯の土を掘って古墳群を作った可能性は十分にあると私は推測してます。それは倉賀野に山がないからです。ただ言えることは古墳を作るには多量の土を必要とする事実でしょう。6~7世紀のことなので古墳を作った資料はどこにも見当たりません。

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2007年9月10日 (月)

女性ランナーに感動し15k歩く

Dscf1063  昭和の最後ころ高崎商業を卒業した38歳くらいになる人たちの親の会があります。この方々は息子さんたちが野球部であったので応援で幾度となく校歌を歌ったのです。校歌の「山秀麗に水清く」という最初の言葉に由来し「山秀会」(やましゅう会)と名づけてます。

 私が担任したクラスには野球部の生徒が多くいました。また、私は吹奏楽部顧問であったので部員と共に毎回応援に行きました。群馬テレビのインタービューを受けたこともありました。

 このため当時から野球部の保護者でもあり、同時にクラスの保護者でもあるこれらの方々と機会あるごとに懇親会が持たれ、子供さんが卒業して20年経過しても「山秀会」は依然と続いてるのです。

 昨日から1泊2日で吉井町の牛伏ドリームセンターでこの会が開かれ、ビールがおいしくなるためと自分の体力を試そうと私は懇親会場まで約15kを歩き始めたのです。会が始るのは午後6時からですので、3時に家を出れば間に合うだろうと推測し出発しました。父の命日だったので、途中、お線香を持って墓参りもし、帽子にリュックの姿となり、なるべく最短距離を考えながらどんどん歩きました。こんな長い距離を歩くのは暫らくぶりです。しかし、予想に反して15キロは行っても行ってもなかなか着きません。

Dscf1066  吉井町牛伏ドリームセンターは山の中なので、後半、起伏が多く、次第につま先がおかしくなりました。それでも、やっとのことで6時手前にドリームセンターの屋根が見えたときは一人頑張った証でしょうか、嬉しさでほろっときました。ガソリンスタンドの自動販売機で飲み水を買った以外は、ほとんど休憩を取らないでせっせと歩き続けました。

 実は昨日、出発前にテレビで「札幌マラソン」をすべて見たのです。その影響があって急遽歩く気になったのかもしれません。というのは、女性ランナーが男性の中に混ざって、ひた向きに走ってる姿にすごく感動し、この方たちに比べ、私はまだまだ全霊で努力してないと感じてしまったのです。ですから札幌マラソンの女性ランナーの走りを見なければ、15k歩かなかったかもしれません。

 ところで「山秀会」は私より年配の方ばかりで、何だかいつもとは違う楽しさになり、日頃の孤独さはどこかに吹き飛び、ビールは調子良くいただけました。幹事の方から私がドリームセンターまで歩って来たことが紹介され、皆さんから拍手をいただきました。でも、私の内心は女性ランナーのお陰と彼女たちに感謝してました。

【写真上は牛伏山全景です。】

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2007年7月26日 (木)

日本を堪能したい

Dscf0880  私のこれからの目標の一つは国内旅行です。今まで行く機会がありませんでした。未だ、北海道や北陸、山陰を始めとして多くの名所を訪れてません。同じ地であっても時季が違えば趣が異なるでしょう。

 それでも一度だけ、印象に残る旅を経験しました。それは「海から見る日本の旅」です。横浜から夕刻、客船に乗り、洋上で翌朝を迎え、その日のお昼頃、大分に着きました。途中、紀伊半島、室戸岬、足摺岬などの先端を太平洋側から見る船旅です。日本列島を客観的に捉えたかな。

Dscf0879_2 今後は積極的に旅に行き、見聞は出来るだけ足で歩いてみたいと思います。私の住まいは群馬ですから日本列島のほぼ真ん中。このため東西南北どこへも比較的便利です。

 目的地までの交通手段は列車、観光バス、マイカーを予定してます。しかし、現在、旅行用の車を持ってません。

Dscf0216   かつての愛車117クーペの雰囲気を持った車はあるでしょうか。そうそうケイマンの黄色はいいね。

 どちらへ行っても宿泊は温泉地の予定です。若い頃、インドの方々にAre you an Anglo-Japanese?と聞かれましたが、私は生粋の日本人なのです。このため温泉が好きです。そしてビールや地酒とともにその地の珍味を味わいたいですね。

Dscf0901 ところが、私にとって旅するには一つ必ずしなければならないことがあるのです。それは忙しい娘に頼めないです。レース鳩の世話を近所の方か友人に依頼する必要があります。レース鳩は雛が生まれる春はよく面倒をみなくてはならないので、この時期は外します。それ以外の時期は餌と水のみで比較的簡単です。

 これらの条件が揃えば(旅々)出かけます。ただ私は一人旅が苦手なので、旅は道連れを望んでます。旅の好きなお伴は生まれるでしょうか。

【写真はびっくり草とオシロイバナ、117クーペ、ケイマン】

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2007年6月25日 (月)

ペンション「ぱられる」の思い出

Dscf0198_1 山形県のスキーメッカ「天元台高原」の「ペンションぱられる」はお薦めです。雪質最高で宿からゲレンドヘ滑って行けます。冬から春にかけてはスノーボード、スキーが楽しめ、初夏から秋にかけては登山、天体観測には打ってつけの標高1350メートルの高原です。

 【ペンションぱられる】で検索されますとアクセスが分かり、予約はすぐ可能です。毎年、味を占めた固定客も来訪しているようです。

 私は以前に一度、雪のない季節に訪れましたが、天体に興味がある私にとりまして見事な星空が心に刻まれてます。この地一帯が高原スキー場であることから山岳地帯の中にあり、街の灯の影響を受けません。一般的に余りきれいでないといわれる日本の空ですが、天元台のように澄み切ってるところは本当に嬉しいものです。

 若いとき見たインド・デカン高原ハイドラバードの降るような無数の星、カトマンズ郊外で見たすぐ手の届くような星座、内モンゴルの草原で見た煌めく星の数々、これらは言葉に言い表せないほど神秘ですが、ここ「ペンションぱられる」に宿泊されての天体観測もしじまの中へ己を旅させることができるでしょう。それは宿がケーブルカーで登りついたところにあるからです。

 ここでの料理のお客の印象は東北一とも評価を得るほどです。それは気さくな美人女将(通称・さちこさん)のもてなしに秘密があります。あるじはスキーの名手(通称・まさるさん)ですから、ご夫妻はペンション経営にはうってつけの才能をお持ちです。3人の男のお子さんもお客様を歓迎します。

 今年の夏、私も訪れたいです。昼間は登山、夜は星空、お風呂の後のビールは文字通り雲上の幸せでしょう。

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2007年5月 3日 (木)

私が生まれた倉賀野町

Dscf0672_1  群馬県に住んでいても倉賀野町を訪れたことがない人は多いようです。ここは江戸時代の宿場町であったことから近年では歴史愛好者が見学に訪れてます。江戸時代は江戸から烏川経由で舟により荷物を運搬し、倉賀野河岸はずいぶん活気に満ちた船着場であったようです。ここを中継地として上州はもちろん信州などへ荷物が運ばれたといわれます。舟から上げた荷はそのあと牛に曳かせたので、今でも牛街道という道が残ってます。

 明治20年、倉賀野駅が開設され、現在、東京へは新幹線を使用しなくても直接行けますし、最近では湘南新宿ラインにより小田原までグリーン車で行けるようになりました。また、八高線が通ってますので八王子方面へも楽に行ける交通至便な町です。

 昭和38年に群馬郡から高崎市に合併しました。この町の良いところは自然災害が少ないことでしょう。昔、正六地区に竜巻があったそうですが、それ以外に歴史に残る災害は見当たりません。一つには地盤がしっかりしてます。近くを流れる烏川の水位が町の標高より20メートルほど低いため水害にも見舞われません。対岸の阿久津地区、木部地区では氾濫で災害を被りましたが、その後、土手が完成しました。

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 町内には江戸時代の道しるべとして、石に刻まれた標識が下町に現存しており、中仙道と日光例弊使街道との分岐点であったことが分かります。写真のように、これより右江戸道、左日光道の文字が読み取れます。またこの分岐点には常夜燈が建立していて、ここを通過したと思われる当時の大相撲の力士名や歌舞伎役者名などが彫ってあります。

 Dscf0675ここにある閻魔堂というお宮も現存してます。8月16日のお祭りには赤く恐い閻魔様の様相が拝見できます。参拝者がお堂に上がりますと直径3mほどの大きな数珠を笛太鼓の音に合わせて回します。数珠は木製でできており、中央には大きな玉が一つ付いてます。それが自分のところに回ってきたら額につけて拝みます。参加者の人数により回す回数は異なりますが、だいたい20人ほどが畳の上に輪になって正座し、数珠を左回しにし一周したら、次は右回りになります。それを何度も繰り返すのです。厄病お払いの意味があるのでしょう。

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 ここを通過した江戸時代の旅人の多くがこの閻魔堂に立ち寄り、道中の安全祈って、この干からびた数珠を触ったかと思うと、これは大変価値ある骨とう品と思います。

 この他、倉賀野には大きな古墳群が残っていたり、江戸からの河岸跡、それに伴なう多くの蔵など、宿場町であって同時に江戸と日光への分岐点でもあった往時の華やかさが偲ばれます。

 その後しばらくして、江戸時代生まれの私の祖父母は埼玉県原道村から新天地倉賀野で生活することになったのです。

 

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2007年4月17日 (火)

インドで驚いたこと

Dscf0612 Dscf0608  若き日、日本人学校の教員としてカルカッタに滞在してましたので、時々当時のことが思い出されます。市の中央にマイダンという一面が野原の広大な公園があります。そこには、日陰ができる大きな樹木があちこちにあります。近くには巨大な白亜の建造物ヴィクトリアメモリアルがあり、この界隈はカルカッタで美しいところでしょう。

 ここは職場に行く途中、通過しますので、毎日眺められる楽しみな公園でした。5月の夏休みや日曜日などよく散歩しました。インドの方々もたくさん寛いでいて、大きく枝を広げた木陰で涼んだり、子供たちはクリケットして遊んでいます。近くには大河ガンジスがゆったり流れる大きな町です。

 インド滞在記は一回では書き尽くせませんので、思い出したらその都度、記憶をたどって書いてみようと思います。

 宗教上での風習では葬儀の行列に本当に驚きました。大都会であるのにその目抜き通りを死者を担架のような台に載せ、4人で高く担いで移動し、親族がその後から何やら歌いながらついてくのです。

 ところが、死者は棺には入っておらず、そのままで顔まではっきり見えます。私はカルカッタで多くの亡くなった方々を見てしまいました。

 死者の顔には赤や青、黄色などの原色で化粧のような模様が派手に塗ってあります。手や足にも模様のような色が塗られてます。この行列は長くつづき、親族と思われる人たちが何やら祈祷するかのように悲しそうに民族衣装を纏い歩いているのです。死者のことをヒンズー語でカタムホギャと言いますが、連日のようにカタムホギャの光景を目にしました。

 一方、この風習を見たとき40年ほど昔までの日本の葬式に通ずるとも感じました。子供の頃ジャンボンという行列を良く見たものです。亡くなった方の家から出発し、寺まで行列が行進しました。シンバルのような、しかし、もっと民族的な低い音の打楽器及びボーンと鳴る低音の鐘を交互に叩いて行進し、寺の庭では右回りに確か9回回りました。その音がジャーンとボーンでしたので子供の時、私たちはジャンボンと言いました。そのとき近親者がお金を撒いたので拾って小遣いにしたものです。

 日本の場合はもちろん死者は見えませんが、カルカッタの行列でも音楽を伴なう行列ですので、昔の日本との共通点を感じました。

 しかし、死者の顔がはっきり見えるカルカッタの葬送行進には本当に驚きました。

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2007年4月 4日 (水)

東洋の水の都スリナガル

Dscf0514 Dscf0519 Dscf0520  カルカッタからインド国内航空でニューデリーへ向かうと遥か北方にヒマラヤ山脈が望めます。下界のヒンドスタン平原は炎暑というのに、紺碧の空の中、すっぽり万年雪に覆われた長い長い山脈は、いつものインドとはあまりにも対照的な「天上の美」です。約2時間、機上から見る白銀の山々は次から次へとその偉容を変え、これでもかこれでもかとその雄姿を誇り続けています。下界を望むとただただ広大な原野で40度を越す猛暑の中、何億人もの人々が生きてる筈です。

 ニューデリーではガンジーの墓に礼拝してアグラの町へ、大理石による左右対称美のタージマハ―ル及び要塞を見学、いよいよ念願のカシミールに向け飛行機は北上しました。

 途中、給油のためインド空軍基地に立ち寄り、ここでは厳しく写真撮影が禁止されてます。窓から見る光景は物々しく戦闘機がずらりと並んでおり、現実世界の緊迫感に満ちてます。お客の中に思わずシャッターを押してしまった人がいて、いつになっても飛行機が出発しないので、おかしいなと思ったら基地でそれを傍受してたのです。そのうち、係員が来てフィルムを没収していきました。

 その後、飛行機はぐんぐん高度を上げて水平飛行を続け、ついに来た遥かなるカシミール。世界の屋根に囲まれたその町はスリナガル。人々の顔のつくりが今まで見たインド人と趣が異なってます。目が大きく、特に鼻全体がかなり大きくて高いのです。民族的なことと思っていましたが、試しに幾人かいた男性にどうしてそんな大きな鼻をしてるのか訊ねました。そしたら愉快なことに、毎日引っ張ってると言いました。これには本当かと笑いました。私も真似をしましたらやり過ぎて、ついに鼻血が出てしまいました。

 Dscf0557 驚いたことに、こんな遠くに来てもヒンズー語が通じます。やはりインドでの公用語なのです。また、大変美しいことに湖の中に町があり、どこへ行くにも水路を通って屋根つきボートに乗り移動するのです。途中では同じ形のボートに乗った行商人とすれ違い、そのボートはそばに近寄ってきて商売を始めます。私も民芸品を買いました。この屋根つきボートの中には寒さをこらえるために「カングリ」という名の壷に火が入っていて、それで暖を取ります。現地の人はここカシミールを「東洋の水の都」と言ってます。

 ここは木彫りの民芸品に特徴があり、私は見事な彫刻が施してある物をいくつか手に入れました。陸に上がってからジュ―タン作りの家内工業を見学、手作業による民族的色彩の濃い出来栄えには驚嘆しました。

Dscf0529  お泊りはハウスボートという名のホテルです。これは湖に浮いてる大きな船です。普段は動かないように岸に停泊していて、お客はそこに滞在宿泊するのです。中を歩くと船が多少揺れぎしぎし音がします。澄んだ空気と聳え立つ山々に囲まれ、静寂な湖を眺めての滞在は憂き世を忘れさせてくれました。

 今頃、日本は新年を迎えた筈と大晦日8時半に乾杯しての夕食です。日本との時差は3時間半。大昔から東西交流の中継地であったここカシミールで新年を迎えたことは私の心の歴史にいつまでも残るでしよう。こんなロマンチックな所へ新婚旅行に来たらいいと思います。

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2007年3月22日 (木)

先人の知恵

Dscf0465 Dscf0466  昔の佇まいを呈する武家屋敷跡を見学してきました。小幡には江戸時代の名残があります。このようなところをゆっくり散策するのは心が落着くものです。

 平成元年から6年間、勤務地が富岡市内でしたので毎日近くを通過してましたが、忙しさもあって途中で見学する気持ちの余裕はありませんでした。同僚と4月に満開の桜の下で一杯飲んだ思い出だけはあります。お酒の魅力の方が大きかったのか。

 今回、彼岸の入りに際して摩崖佛を礼拝しましたが、その折ゆっくり小幡を見学したいと思い、近くに散在する武家屋敷跡を見て回りました。

 私は昔のものを見学する場合、当時の方々のそれを建築した思い、危険回避の工夫、目的遂行の知恵に着眼したいのです。各箇所に必ず工夫が見られます。しかしながら、戦乱の世にあってもあくまで芸術的な趣、格式、威厳を示す工夫が感じられホッとします。

 写真のように屋敷の基礎として石垣が周囲を取り巻いてます。セメントのない時代ですから大小の石を方々から人間戦術で集めてきたのでしょう。あるいは現在のセメント工法より雨風に対する風化が防げるように感じます。積み重ねによる紋様は味わいがあり、重量感や松など植え込みから来る風情は武家屋敷の格式と威厳に通じるようです。

 写真左は内部に入るにわざわざ曲がって出入りする仕組みに石垣が積んであります。直接内部を見られないためや、武士が通過する場合、身分制度による下の者の隠れる位置、あるいは突発的な外部からの攻撃に対する防衛のためかと想像できます。

 この石垣の構造を知るだけでも当時の不安定な世の中、厳しい上下社会の成り立ちがリアルに迫ってきます。

 人類誕生以来の歴史から見れば、江戸時代は昨日のような時間です。基本的にこの時代も今の世も厳しさは不変です。常に不安と安堵が行き来し、どちらかと言えば不安定な世の中であり、先行き分からない気持ちが大でしょう。今の時代も生きていくのは容易なことではありません。お互い心を通わせ、助け合い、つながりを持って人間らしく生きていきたいものです。

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2007年3月21日 (水)

悠久なる万里の長城を散策

Dscf0468 Dscf0472  6000キロに及ぶといわれる大城壁、日本の稚内から鹿児島までが直線距離にして約1800キロですから、いかに長い距離を建設したかが分かります。北方の敵から国を守ろうとした指導者の強靭な意思、代々その目的を引き継ぎ、建設を遂行したところに果てしない民族性を感じます。建設の場所はわざわざ山の稜線から山頂を通って足場の悪いところばかり延々と築き上げられてます。それだけでも作業の困難さは想像を絶します。

 昔の指導者が匈奴や蒙古に備えて築かれたものといわれ、いかに長い間、他民族からの戦いが続き、国を防衛する大変な時代であったのでしょう。私は長城は一つで、それが長く築かれてるものと思っていましたが、場所によっては幾重にも建設されてます。

 万里の長城の下にはトンネルがあります。パオトー行きやウランバートル、あるいはモスクワ行き等の列車の線路が走ってます。列車に乗ってみると大同、張家口などの有名な駅を通過し、この付近でも長城は幾重にも見えました。

 また、途中から海抜が高くなるので列車は勾配のある地点では停車できません。スイッチバックがあります。あれっと思ったら反対方向に動き出しました。でも戻ってるのではなく別の線路に入りますが、それからは景色が逆に動きますので心配でした。私が乗った内モンゴル・パオト―行きの列車は北京発の夜行寝台でしたので長い時間かけて万里の長城付近を過ぎると高地の平原になります。景色を見てもほとんど電灯が見えず、まるで暗黒大陸の中を400メートルもあると思われる長い列車が轟音と共に力強く内モンゴルの大平原を走ります。

 このスイッチバックのとき、我が群馬県の松井田駅を思い出しました。長野県に至るとき碓氷峠に差し掛かるので勾配があり列車は停車できず、いったんスイッチバックで逆に進んで、引込み線に戻り傾斜のない地点に駅舎がありました。皆そこから妙義山まで徒歩で行ったものです。内モンゴル行きの列車に乗りながら昔の松井田駅が脳裏をよぎりました。

 万里の長城はレンガのような比較的大きなブロックを積み重ねて建設されてますので、それを考えただけでも途方もない数です。人類の祖先は考えられないほどの精神力です。

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2007年3月11日 (日)

Hello ! Karan India. Thank you for calling me.

Dscf0412  Please visit Japan again in the near future. Unfortunately my better half died three years ago. She was talking about you many times as long as she lives. I am looking forward to your coming to our city. 

「日本の皆様へ」

 数年前、私の家でホームステイとして受け入れましたインドの青年カラン君から本日電話がありまして暫くぶりに話が出来ました。彼にこのブログのアドレスを伝えましたのでご覧頂いてるかもしれません。このため急遽タイトルを変更いたしました。果たして英文翻訳機能が威力を発揮してくれるでしょうか。

本来のタイトル 【めざせ日本発見の旅】 

 かつては仕事仲間と県内外へ職員旅行として行きましたが、近年、職場も忙しくなりグループで旅行することはほとんどありませんでした。家族での本格的な旅は東京駅から寝台特急で21時間かけ西鹿児島まで行ったことが唯一の思い出です。

 私の住んでる群馬県は見かけ上、日本のほぼ真ん中ですから北へも南へも行きやすい位置の筈ですが、実はあまり行ってないのです。珍しく飛行場がない県であることも遠方へ行かない結果に繋がってるのでしょう。

 まだ行ってない国内はたくさんあります。行ったとしても新幹線や高速により、ほとんどが素通りで立寄ってません。これからは積極的にあちこち巡り日本をもっと知りたいです。幸い私にはインターネットで知り合えたレース鳩愛好家が全国にたくさんおられますので、その方たちを訪問するのも楽しみとなります。

 昼間は足を使って大いに見聞を広め、夕刻からの楽しみは何と言っても温泉です。その土地ならではの珍味に舌鼓を打ち、ましてや気持の通じた人とその日の見聞について語り合いながら一杯やることは無上の至福でしょう。

 まだ行ってない主な所で、ぜひじっくり巡りたいところは北海道、南西諸島、山陰、宮崎県、和歌山県、北陸、能登、佐渡、山陽などです。今まで2年間のインド滞在、カシミール、ネパール、バンコク、香港、内モンゴルなどに行きましたが、これからは国内の良さを十分知りたい。同じ旅先でも季節を変えて訪れれば、また趣は異なるでしょう。

 交通手段は時間的にゆとりが生じる車もいいと思います。現在は軽のバンのみで乗用車を保有してません。「旅は道ずれ世は情け」ですからいっしょに行ける人が現われたら写真のような車でゆっくり日本を旅したい。

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2007年2月25日 (日)

神秘な国 

Dscf0362 Dscf0367 Dscf0361 青春時代、インドに暮らしてたことは、一日として忘れることはありません。

 夏休みが5月であったり、セミが冬に鳴いたり、18度くらいになるとインドの方は寒いと言って焚き火をしました。

 大道芸人が笛を吹きながらのコブラの踊り、太鼓を叩きながらの猿回しに人だかりができたり、道には露天商人がたくさん並んでいます。定価がついてないので言値に対し値切って買うのです。また、どこへ行っても乞食のような人がいて、バクシー(お金を下さい)と言ってついて来ました。

 中でも最も驚いたことは、手足が根元からない人が歩道にいて仰向けの身体をくねらせながら移動してるのです。通行人にお金を入れてもらう缶を短い腕に挟んでる光景には驚きの他はありません。着てる衣服の背中は擦り切れてるようで、そばに誰もいなく身内がいないのでしょうか。急に雨が降ってきたらどうするのでしょう。気温は暑いのです。

 ある日曜日、カルカッタを散策中、ジャイナ寺院の前で30人位が輪になってる人だかりができていました。何やら物凄い甲高いキャーという悲鳴のような声がしてました。何だろうと思って覗いてみましたら今まさにヤギが殺されるところで、Y字型をした杭に首を挟み2人の人が足を引っ張り、一人が大きな鎌で首を切り落とす直前でした。見物人一斉の掛け声とともに鎌は振り落とされ、流れ出る血液を洗面器に取り神に捧げました。生臭い匂いで暫くはその光景が忘れられませんでした。法律では禁止されてるそうです。私たちにとって目に余ることも、大昔から行なわれてきた宗教行事なのでしょう。

 今回は、あまりいい風習、宗教を書きませんでしたが、インドはどこまでも広大で青い空、マンゴー、ザボン、椰子の実などの果物が豊富です。暑い国であっても雪が降る地方もあるので一言で言えないのがこの国でしょう。今やインドは経済やITでは大躍進を遂げてます。

 【写真は私の部屋に飾ってある農村の神秘的な絵と象たちです。】

 

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2007年2月18日 (日)

カトマンズの祭り

Dscf0300_1 Dscf0299_1  学校を卒業するや否やの就職はインド・カルカッタ日本人学校職員でしたので、さあ大変。父は千載一遇のチャンスとばかり賛成、母は私の健康を気遣って猛反対。

 世間知らずのままの海外赴任は180度の環境変化。お金はルピー、言葉はヒンズー語、ベンガル語、英語、毎日40度の猛暑。日本食は無し。太陽は頭上。

 このような環境にあっても滞在2年目となると若さのためでしょうか環境に馴染んでしまい、友人ができたりインド各地への旅行の楽しさも増えて住み心地がよくなりました。買い物もルピーが自然に使えるようになり、だんだん日本のことを忘れ始めました。父母とは月に一度程の手紙による近況報告だけでした。

 高校生の頃、川喜多二郎さんの「ネパール王国探検記」を読んで感銘し、その頃からカトマンズ行の気持ちが強くありました。カルカッタ滞在中に「そうだ!隣国ネパールに行こう」という昔からの夢が蘇ったのです。幸運にも直行便が出ていますので、休暇に行こうとチャンスを狙っていました。

 カルカッタのダムダム空港からカトマンズのトリブーバン空港までは乗ってふわふわするプロペラ機です。広大なヒンドスタン平原からネパール領内に入ると飛行機は小高い山すれすれに飛ぶようになり、すぐ下の山肌が肉眼ではっきり見え、行っても行っても段々畑が広がっています。珍しくてその美しく青々とした光景に見とれていました。しばらく飛行すると高い山に囲まれた盆地のようなところに着陸しました。暑いカルカッタから来ましたのでカトマンズのトリブーバンエアポートは涼しく、まるで夏に軽井沢へ行ったような錯覚になりました。

 カトマンズ滞在中に偶然にも日本の祭りの原型ではないかという山車に出合いました。村人が綱で引き、笛、鐘、太鼓によるお囃子で、音楽も何処となく日本のに似ているような感じです。写真左のように山車の上に日本のどんど焼きを思わせるものを積み重ねており、一番上に人が掴まって乗ってます。山車が前進するたびごとに前後左右に大きく揺れます。

 この光景を見て「日本の山車の起源はどこであるか」思わずにいられませんでした。遠い遠い私たちの祖先の時代にどこかで起源があり、それがカトマンズにも伝承されてるのかもしれません。

インドのオリッサ州プリーという町には太陽の神を奉る古代ヒンズー教の大寺院があり、この寺院の両脇には巨大な車輪を象る彫刻がいくつもあり、あたかも寺院そのものが前進するかの如くの印象を与えます。これを見たとき思わず「日本の山車の起源はこれかな」と直感してしまいました。

 【写真左はカトマンズの山車、右はネパールの段々畑とヒマラヤ山脈の遠望】

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2007年2月 6日 (火)

パオの中で歓迎会

Dscf0236_3 Dscf0237_2                                                               中日友好号に再会した後、内モンゴル自治区の大平原へ連れてってもらいました。見渡す限り広大な野原です。そこには集落を形成するかのごとく移動式家屋パオ(モンゴル語でゲル)が散在してます。

 最も広いパオの中で歓迎会を開いてくださるとのことで行きましたら大きな驚きがありました。この日の新聞に中日友好号に会いに来た私のことが掲載されてるのです。大平原を訪れたからそれを知ることができました。

 パオの方々がモンゴル式の発声で歌を披露しながら、60度のお酒を注いで歓迎してくださいました。流石の私もこの強いお酒には参りました。これが本当の完敗(乾杯)でしょう。普段からもっと鍛えておくべきでした。発声法は独特なものでびんびん響くのです。たぶん大平原にいて遠くまで透るよう昔から工夫された発声法なのでしょう。

 司会の方(写真右の青い衣装の男性)が、そこにいた少数民族の方々に「日本から内モンゴルまで飛んできた自分の鳩に会いに来た日本人」ということを紹介してくださり本当に感激し嬉しくなりました。このような歓待をいただき私も返礼として何か余興しなくてはと思い、民族楽団員のキーボードをお借りし中国国歌を弾きましたしら、パオの中にいる全員の方々が私の演奏に合わせて手拍子をしてくださりムードは最高潮になりました。

 日本は昔から中国の文化を取り入れ 現在の日本があります。それを忘れてはいけないと思います。不幸な戦争がありましたが、それにもかかわらず、多くの残留日本人孤児たちを温かく養育してくださったことに感謝を申し上げました。鳩を通じての民間外交は実に温かいもてなしを受け 歴史的な旅となりました。           

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2007年1月24日 (水)

海を渡った中日友好号

Dscf0093 長いこと鳩を飼ってますと驚くことがあります。飼育してた1羽の鳩が私の家から中国内モンゴルまで飛んで行ってしまいました。

 実は年老いた私の両親が寝たきりになってしまった頃、そのため鳩の飼育が困難となり一時的に鳩舎を壊して、飼っていた数羽の鳩を友人に託しました。

 その後、その中の1羽が生まれ故郷の私の家に戻ったと思われるのです。しかし、古巣の鳩舎がありません。鳩にとっては「さあ大変」、気が動転してか、あるいは帰巣本能がショックによって狂ってしまったのか、西へ西へと飛び続け、とうとう日本海を渡って遥か中国内モンゴルまで飛んで行ってしまったのです。

 ある日、仕事から帰りましたら1通の手紙が内モンゴルと思われる消印で届いてるのです。開封してみますと漢字だけの文章です。内容についてなかなか理解できません。成績と言う字がありました。鳩という文字はありません。何のことかさっぱり分かりませんで県の国際交流課に訳していただき意味がわかりました。鳩に相当する文字がありましたが、中国語では鳩と言う漢字でなく、もっと画数の多い文字です。

 その結果、私の鳩がそちらでお世話していただいてることが分かりました。なぜ、先方の方に「その鳩が私の鳩である」ということが分かったかと言いますと、鳩が生まれたとき住所と氏名を彫った脚環をその鳩の足にはめておいたからです。漢字のため理解してもらえて運が良かったです。

 その後、お世話になってる内モンゴル集寧在住の「張宝昆さん」と手紙による交流を続け、ついに、私は夏休みに現地を訪問し「愛鳩」と劇的な再会を果たすことができました。鳩を手に取り「どうしてこんな遠くまで飛んで来たのか」と優しく抱き、口笛を吹きましたら「私の顔を見て懐かしそうな反応を示しました」子鳩の時から聞いていた口笛の音色を思い出したのかもしれません。【涙】

 「中日友好号」と命名したこの鳩のお陰で、内モンゴルの方々と親しく交流でき、歴史的な旅行となりました。有意義であったこの旅行についてはまたいつか述べたいと思います。

 写真は中国の新聞に掲載されたものです。

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