カテゴリー「母の思い出」の3件の記事

2008年3月 1日 (土)

井戸を潰してはいけないという母の教え

Dscf0123  群馬県館林市では行政をあげて市内にある個人の井戸の所在地確認に力を入れてます。水質検査をし飲料水として認定されると市に登録され、大地震など緊急時に水道の変わりに市民の飲料水として使われることになります。「備えあれば憂いなし」です。

Dscf0121  同市では2007年中越沖地震で被災直後に職員を派遣し、その際、災害直後は水の確保が最優先課題という教訓を得て、対策を検討してきたそうです。

 このニュースを知ったとき行政として見事と感心しました。平時であっても、私たちは1日として水を使わないで過ごせる日はありません。中でもキッチンでの使用、及びトイレの水は欠くべからざるものです。

 日々、蛇口を捻れば当たり前のように水が勢いよく出ます。コインを入れれば自動販売機で喉が潤せます。しかし、世界では水不足で困っている人々はたくさんいるといわれます。

Dscf0128  南の島の王様が来日したとき、名所旧跡を見学し、飛行機や新幹線にも乗り、おいしい日本料理も召し上がって滞在日程を終え、いよいよ帰国の途につくとき、「日本滞在中、最も印象に残ったことは何ですか」との質問に、彼の答えは何と「水道の蛇口」と答えたという話を聞いたことがあります。

 捻れば水が出る水道の蛇口が夢のようだったのでしょう。新幹線とでも答えるかと思われたのですが、日々、飲料水の確保がどれほど困難なことであるかが分かります。彼の答えに「水は命の源である」ということを改めて認識させられます。

Dscf0127  私たちは蛇口を捻れば水が出ることを当たり前のように生活してます。しかし、万が一、大災害によってダムや水道施設の機能が長期にわたり停止したり、破戒されたりすることは考えられなくはありません。

 このような時、市民を賄う水は不足するどころか無くなることも考えられます。このようなときこそ先祖の智慧で掘った井戸こそは宝の水となるでしょう。雨水は貯めておけばいざというとき防災に役立ちます。

Dscf0120  私の家には両親の時代に掘った井戸があり、代が変わって私の時代になっても毎日潤いを与えてくれます。最も有難いことは庭の植物に溢れるほど与えられますし、レース鳩の水浴に威力を発揮します。レース鳩には飲み水としても与え、ミネラルが豊富でいいと考えてます。市の水道が引かれるまで私たち家族は飲んでいました。

 井戸の素晴らしさは使えば使うほど新鮮な水が生まれ出てくることです。しかも、不思議なことに冬温かく、夏冷たく感じるのです。生前の母の「井戸を決して潰すのではないよ」の声が今でも耳に残ってます。

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2007年5月13日 (日)

花が好きだった母

Dscf0432_2 親孝行したい時分に親は無し。今日は母の日です。6人兄弟の末っ子であった私は母が42才のとき生まれました。食糧難の時代にあって、今思うに6人の子育てはどんなにか大変であったろうと思われます。

 母は小学生の私に夕方よくおにぎりを作ってくれました。海苔は高Dscf0433_2 くておやつなどには使えません。遊び疲れた私が頼みますと、母は「味噌にする。塩にする」と、おむすびの回りにつけるものを訊きましたので、私は味噌を頼んだほうが多かったと思います。色がついてるほうが少しは良かったのでしょう。

 Dscf0438_2 時々、友だちの持ってる玩具などがほしくなり「買っておくれ」というと、お勝手で薪の火をくべながら、「家はね、税務署が税金を取りに来るので、余分なお金は無いのだよ。それをしないと、さしょうさいになり大変なんだよ」と言いながら、私に言い聞かせるのです。この言葉の響きに何だか恐さを感じた記憶があります。今、思うに「差押え」のことです。

Dscf0436_3 結局、母の説諭に従いいつも我慢するしかありませんでした。経済的に大変だったようで、食べ物についてや何かの支払いについて父と深刻に話してたような記憶があります。子供心に、にこにこした母の顔に戻ればいいのにと思ったりしました。

Dscf0434_3 進学でもずいぶん心配をかけたように思います。地元の大学合格発表の朝、発表を見に行く前に念のため新聞を見たら私の名前が掲載されていました。それを確認すると、母は「お前本当に良かったね」と肩を叩いてくれました。心から安堵したのでしょう。今でもその感触が忘れられません。

 大学卒業と同時にインド日本人学校教員採用試験を受験する時も、「治安が悪く、そんな暑い国に滞在して病気にでもなったら、一人でどうするの」Dscf0435_3 と泣きながら反対しました。今思うと母として本当に苦しかったのでしょう。心配かけてしまいました。

 こんなチャンスは二度と巡ってこないことを約2週間言い続けつけてお願いしましたら、「母もしっかり待ってるから行っといで」と受験を認めてくれ、合格しインドへ旅立つ日には、羽田飛行場へは見送りに来てくれませんでした。私の姿が見えなくなるのが耐えられなかったのです。

 その代わり、長い任務を終え帰国した時は羽田まで迎えに来てくれ、私の持つ荷物にずっとつかまってました。

    

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2007年3月18日 (日)

1910年のハレー彗星を見た母

Dscf0458_1 Dscf0456_1 Dscf0460_2 生前に物を発明発見したり、あるいは芸術作品を創造して、自身はそれを味わうことなく世を去り、後世の人々がそれに驚いたり、恩恵に浴するとすればこんなすごいことはないでしょう。

 私がホームコンサートで度々弾くショパンの「ノクターン遺作」嬰ハ短調もその一つと思います。生前は未発表に終わり、死後、出版されて演奏されるようになりました。シューベルトの有名な未完成交響曲も1、2楽章及び3楽章の冒頭部分のスケッチのみであることはよく知られていますが、彼の死後37年経過してから楽譜が発見され初めて演奏されました。生涯僅かに31年です。人生は短し芸術は長し。

 このようなことで私が最も深い感銘を受けた人物はイギリスの天文学者エドモンド・ハレー(1656~1742)です。彼は生存中、対象となる彗星を見たのは一度だけです。しかし、生まれる前の1531年、1607年に出現した彗星は彼が26歳の1682年に現われた彗星と同一の天体ではないかと結論づけ、次回は1758年に出現すると予言して世を去りました。

 予言した彗星の出現をどれほど自分の目で確認したかったことであろうか。しかし、無念にも1758年を待つことなく亡くなり、その夢は後世に引き継がれました。そして1758年彼の予言通り正しく彗星が現われたのです。こんな偉大なことはありません。自分の名が彗星に命名されたことも知らないことになります。以後76年ごとに現われることが確認されてます。この彗星と同一の天体と思われる出現がこれよりずっと大昔の日本書紀や中国の古文書に記載されてるといわれます。

 私の母(1901~1988)は子供の頃の思い出として、母親に連れられ川の土手へ「ほうき星」を見に行ったと言ってました。大きな尾を引くそのほうき星は少女であった母の脳裏にすごく焼きついたようです。

 今、思うにこれは1910年に出現したハレー彗星です。日本でもハレー彗星が現われることが明治時代に報道されていたことになります。次回の出現予定は2062年ですから見るには大分長生きしなければなりません。20才代の人は可能性が大です。

 私たちは想像もできない大昔からの天体の動きと、その一つである地球上において自然の脅威と恩恵の中で生存してます。この大自然によって生かされてることに感謝感銘し日々過ごしたい。

【写真左から馬酔木(アセビ)、紅白咲き分けボケ(東洋錦)、スイセン】

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